日本時間に戻る・隔離

日本時間に戻る・隔離

2022.05.13 – 2022.05.27 ロサンゼルス(アメリカ合衆国)・東京・神奈川

この期間に私はふたつの重要な朗読を行なうことができた。ひとつは、ロサンゼルスの UCLA で行なわれて、ひとつは、東京の神田で、だった。前者は、私が参加した学会での基調講演の発表時にである。今回の学会の「転換点(Turning Points)」なる主題に、私は、それでは現在は転換点なのか? と問うことから向きあった。このパンデミックの世界、この戦争がそこにある時代は、あたかも転換点のように見える。しかし、そのように判断を下せるか? かつ、それを「文学的な側面」からもっぱら分析して、希望のごときものを探れるのか? この講演の締めに、私は『平家物語』の、自分の現代語訳と、覚一本の原文(の該当箇所)と、ロイヤル・タイラー氏の英訳(の該当箇所)とを、大胆にミックスさせて朗読する、ということをやった。

それはもちろん、いま書いたように〈大胆〉で挑戦的なことで、たとえば原文と私の現代語訳とにズレがあれば、それはクリアにばれてしまうのだし、聴衆は英語ネイティブが多いわけだから、タイラー訳(の『The Tale of the Heike』)と拙訳とに齟齬があっても、それは明らかに前景化する。私はそうした危うさを平然と引き受けた。それは、「そこに問題などない」と自負もしていたからだ。立体視、というのは視覚に関して言うわけだけれども、私は、音(言葉、物語)の立体視、というのを、このアメリカ西海岸時間の5月13日の夕刻に、やった。

それを、生身のこのひとりの身体だけで、やった。

いっぽうの東京の神田は、日本時間の5月22日の夜だった。「D2021」のライブ・イベント『D-composition』に出演した私は、とんでもなくハイレベルな音楽家たち11人をバックに朗読をする、という場に臨み、しかもそこには VJ の映像も混じった。高い質の照明も混じった。私は、リハーサルのその瞬間まで、いったいどういうメンバーとその夜セッションをするのか、わかっていなかったのだが、しっかりと準備をした。坂本龍一さんやゴッチ(後藤正文さん)や永井玲衣さんらが動かしているこの「D2021」の、主旨というか、思いというか、そこを自分なりに咀嚼し、拙著『馬たちよ、それでも光は無垢で』『ゼロエフ』から読む箇所を決め、と同時に、福島に関する自分なりの詩を書き下ろした。私はじつは管啓次郎さんに誘われて詩集の刊行準備もしていて、これまで自作(のフィクション)内にはけっこうな数の詩を書いてきたが、「初めから、詩である詩」に挑むのは今度が初で、その第一歩のように、人前で詩を読むことにもした。そして、当日のリハーサルである。5月22日の午後のことである。私のことをぜんぜん知らない演奏メンバーも多数いたと思うのだけれども、音と声(声=言葉を出すのは私だ)を出しはじめて数分が過ぎたところで、爆発が起きた。

11人+私の、そんなにもいっぱいの身体と、楽器とが、いきなり交響した。

本番は、自分でも昂ぶるほど、凄い演奏だったと感じる。これほどの演奏力を持った人たちと、ただセッションすればよい、という喜び。私がセンターだったので、私の足もとに時計があって、私は、「延びて30分」のセッションを、時間を計りながら進めていたのだけれども、それで何分やったのかというと、だいたい29分40秒か50秒やった。私は締め切り厳守なのだ、基本は。そして、用意していたテキストは20分ぶんだけだったから、予定にはなかった『ゼロエフ』内のパートも朗読したし、即興で生まれてくる言葉も、どんどんと織り込んでいった。発していった。私は、この私としては珍しいことなのだけれども、はっきりとメッセージも口にした。「する必要のある場所」では、私はそれをする、と決めたわけだ。そして、そんなことを私ができたのは、私の左右に、後方に、あれほどのミュージシャンたちがいたからである。その人たちの凄みがあったからである。

以上は、この期間の、すばらしかったことの列挙だ。他にも素晴らしいことはあって、いまロサンゼルスの全米日系人博物館(Japanese American National Museum)ではメディア・アーティストの藤幡正樹さんによる『BeHere / 1942』というとんでもない展示が行なわれているけれども、この展示を、藤幡さんご自身の案内で鑑賞して、おしまいに対談をする、ということもやった(これらは映像に収録された)。いずれ『BeHere / 1942』展については、幾つかの文章に感想をまとめたい。

で、この期間の「すばらしくなかったこと」だけれども、それは帰国後の、自宅待機だ。こういう名前の隔離だ。私はまだ2回しか COVID-19 用のワクチンを打てていない(というか「打たせてもらえていない」が実情に近い)人間なのだけれども、いま3回打っている人間は、帰国後の検疫を通過すれば「自由に国内で移動してよい」のだが、2回までだと、そうはならない。アプリに始終監視されて、居場所を GPS で報告して、ビデオも撮られて、ということが義務付けられていて、それが日に幾度もである。そして、早期に「自宅待機」から解放されるための、自宅訪問型 PCR テストは、費用は(もちろん?)自己負担で、夫婦で7万2000円もした。絶望した。

そういう暗い話は、まあ、もうじゅうぶんだ。コラボレーション的な喜びを綴ると、私は「MONKEY」誌の連載小説(『百の耳の都市』)で毎回、高田姉妹のワンダフルな美術作品を扉にいただいているのだけれども、その高田安規子・政子さんの展覧会『Going down the rabbit hole』に、今度は私が文章をお返しすることができた。彼女たちの作品を観て、というか作品空間内に入って、そこから産んだテキスト、である。じつはおふたりにお会いしたのはこの5月が初めてで、それはなんともすてきなお茶会になった。まさにアリスのワンダーランド的、である。

そして、明日から、強烈なコラボレーションが世に出る。松本大洋さんの絵に私が文を書き下ろした「犬王お伽草子」だ。私は年来の松本大洋ファンだが、ついに、こういう共作を放てた。ほんのちいさな作品かもしれないけれども、そこに孕まれた〈旋律〉のようなものは、おおきい。そして、スクリーンの外側に、こういう共作を大洋さんといっしょにリリースできたことが、「産む(創作する)とは何か」の実例をひとつ、示せているようで、うれしい。

というわけで、明日(5月28日)は、劇場アニメ『犬王』の公開日である。