依然、熱も出さない

依然、熱も出さない

2022.11.12 – 2022.11.25 東京・埼玉・福島

ゆうべ(2022/11/24)福島から戻った時には、これはもう倒れるなと思ったのだが、まだ私は倒れていない。たぶん発熱して、風邪の症状が出て、免疫が落ちて、いよいよコロナに感染するのかなとも予想したのだが、いまのところ私の目はぎらついている。あまりにも多量の、同時並行の作業が続いていて、しかも飛び込みの案件も多いものだから(……どうしてこんなに増えつづけるのだ?)、正直に綴るとメンタルは2度崩壊した。が、組み伏せた。私には〈希望〉がある。その〈希望〉というのは「こういう雑務はいずれ全部終わって、俺は、自分が『やる』と決めたプロジェクトにだけ没入して、朝から晩までその作業をして、合間には雉鳩荘から世界を眺めて、『いい世界だなー』と言って、『あー、こんないい世界だから、また小説書いちゃおうかなー』とか言って、『大好きなあの人やあの人に連絡を取って、遊ぼうかなー』と言って、『いっしょに朗読をやっちゃったりなー。そうして、みんなで昂揚したりなー。そうしたら、また、俺、創造意欲の塊まりになっちゃうわけだなー』とニンマリして、だから書きつづけ、調べつづけ、考えつづけ、朗読しつづけ、そういうことをやりつづけても幸福感しかない」状態に至る、というものだ。

その〈希望〉を達成してやる。できれば半年以内に。

今月11日に「締め切りまであと1週間しかない。しかし、冒頭から全部の原稿を棄てて書き直すから、ここから100枚書かねばならない」と覚悟を決めた新連載の原稿は、仕上がった。かなり遠いところに行った。途中でラジオに生で出たりもしているのだが、それはたぶん、私ではない。私の霊体のひとつが、なにか、『この状況にどうにか対応します』と言ってくれて、実体化し、声を発したのだろう。私は通常、締め切りの当日には午前か、昼頃に原稿を仕上げて入稿するのだけれども、仕上がったのは夜の9時を越えていた。頭はほとんど私の頭部には付いていなかった。翌朝、どうしてもオンライン・ミーティングというのをする必要が生じて、しかし、その場に本当に自分がいたというのが信じられない。しかしながら、結局は「書きあげることができた」という事実が、どうにか多少のエナジーを私(の肉体)に注入したのだ。

今週は講演をしなければならない機会も訪れて、というかこの3カ月、私は国内のどこかでは講演をしつづけているのだが、そういう時に思うのは「講演というのはたぶん、話す人間が『(そこそこ)著名だから』的な理由で設定されている」ということで、私はホントそれはどうでもいい。作家は究極的には「作家であること」をテーマに語るわけなんだけれども、この私であれば「ものを作りたい」から作家になった。だから現在でも作りつづけている。こういうのをシンプルというのだ。なのに、どうしてこんなに作りつづけられるのか、と問われると、その設問が間違っているから私は困る。もしかしたら世間には「有名になりたいから」「お金もほしいから」みたいな理由で作家になっている人がいるのか? いるんだろうな。いるんだとしたら、小声で言いたい。そんなの馬鹿みたいじゃない?

こういうのは政治の話に近い。たとえば「国政選挙で当選しないと、きちんと国レベルの〈政治〉ができない。だから国政選挙に当選することを最優先の目的にする」という国会議員あるいは国会議員志望の人は、なんのことはない、ぜんぜん〈政治〉をすることを目的になんてしていない。なんでこんな間違いが横行してるんだ?

マツリゴトしようよ、というのと、いいから書こうよ、というのは等しい。そして、そういうことをすると(根回しをしないで選挙に出る、等)、世間的には敗北する。私だって、もう、いつだってブッ倒れて起きあがれない。という寸前まで行って、しかし今日も起立した。いいや、昨日だった。なぜそんなことをしたのか? そんなことができたのか? 間違っているのは自分じゃなかろうよ、とだけは信じることが成ったからだ。

来年の2月19日に私は向井秀徳さんとライブ・イベントをする。2マンをする。もちろんセッションもガチでする。それを「したい」からだ。私は、私の朗読というアクションには〈文学〉があることを信じていて、かつ、あらゆる音楽、そのうちの力強さを秘めた〈音楽〉には〈文学〉を駆動させるものがある、本源にあるのだと確信できているからだ。私は何を言っているのか? ほとんどの人間は言語を用いて思考していて、つまり、その人というのは言語から成り立っていて、だから〈文学〉とは人にじかに触れるものなんだよ、それでもって〈音楽〉は人を直接揺さぶるし。ほら、言いたいことはわかるでしょう? ということだ。

私も向井秀徳もマツリゴトなんぞはしないけれども、マツリはする。こういうふうにも言い換えられる。MATSURI SESSION って、ほら、それがどういうことなのか、じわじわ沁みてきたでしょう?

さて『天音』だ。私の初めての詩作品、1冊の本となった詩、Ten-On だ。もう発売となり、それは触れられ、握られ、捲られ、携行されることを、ごく自然に運命づけられている、と私は勝手に直観する。カバーをさわるとわかるよ。装画の近藤恵介くん、装幀の戸塚泰雄さん、ありがとう。出発点(ゼロ地点)にいる管啓次郎さん、ありがとう。

明日は『天音』読書会で、かつて画廊劇もやらせてもらった会場の LOKO GALLERY では、『天音』をイメージしたお菓子もサーブされる予定、です。ほら、こんなの聞いたらホッコリするでしょ? ほら、さっき語った〈希望〉っていうのが、なんだかボンヤリ見えはじめるでしょう?