
太陽から考える
2025.12.13 – 2025.12.26 東京・埼玉・大阪・福島
これが今年(2025年)最後の「現在地」となる。2019年の4月からずっと書いてきている、というのは、もしかしたら貴重なことなのかもしれない。毎年毎年、その年の最後にアップする「現在地」は、私に不思議な感慨をもたらしている。いま現在の覚悟をどこかに存在する(はずである)読者に向けて〈共有〉しているのだという事実は、過去の1年間をべつの眼差しで眺めさせる。
今年に関して言えるのは、私は「今年は1冊も本を出さなかった」ということだろう。しかし創作には身を投じつづけた。ただし、秋に、ほぼ仕事をしない時期がある程度まとまって存在した。そして現在は? ずっと来年以降に備えている。少しずつ準備は整いつつある。いま〈来年以降〉と書いたわけだが、すでに10年単位で物事を考えている。私はこの2025年の暮れを、再びの出発のための期間に充てている。ほんとのことを言えば、ほとんどデビューし直そうとしているのだ。ただし小説第1作は決まっていて、その題名は『夏迷宮』という。
しかし来年(とそれ以降)のプランは記さない。まだプランは記さない。それよりも過去の1年間に向けている眼差しを、ほんの昨日や一昨日に集めてみる。
すると私は「メリークリスマス」と言っていて、ある人から「それは不用意には使えない挨拶になっているって聞いたよ」と答えられた。つまり、あなたはキリストの降誕に祝福を述べられる立場か? 的な問いかけが背景にあるのだろう。あるいは救済者キリストを信仰しない人間を相手に口にしてよい挨拶か? 的な問いなのか。
だが不思議な話だ。今年は2025年である。こう書いて、私は誰からも非難されない。しかし、これはキリスト生誕の紀元であって、私はしかし広義のキリスト教徒ではない。日本もまたキリスト教国ではない。なぜ今年は2025年なのだろう? まあ「令和7年も併存するから、いいや」的なことなのか。
暦には恣意性がある。ある文化において「1年の第1日め」がいつかは、それぞれの文化(または文明)が決定した。その文化(または文明)の背景に宗教という推進力があって、そこからグローバルな暦が誕生した。しかし、出発点は恣意的である。
そこを踏まえて、私は昨日や一昨日はメリークリスマスだなと思って、それは冬至を意識している。
太陽が冬至点を通過したのだ。通過して、その直後の期間なのだ。そして私、および日本列島は北半球に存在していて、つまり「夜がもっとも長い時を、過ぎた」と感じたのだ。つまり1年間が再びスタートしたのだ。また昼が長い周期に入った。新しい1年間に入った。よい年にしたい。つまり merry にしたい。Merry Christmas という挨拶が口に出る。そしてクリスマスという祝日じたいが、やっぱり冬至を意識している。その(世界的な)祝日はつぎの年を merry にしたい、と願っている、と私たちが願っている。
それでいいんじゃないかなと思う。
私たちは目の前に〈言葉〉がある時、妙なタイミングで〈言葉〉のその表層ばかりを凝視する。だけれども、どんな〈言葉〉にも深層がある。表面があるのだから、その内側が、奥のほうの部分があるのだ。そして、奥へ奥へと進むほど、その〈言葉〉は私たちを高い次元に昇らせる。
そうなのだ。〈言葉〉の深層は、じつは、あまりにも上のほうにある。それをつかもうと心を開いた時に、私たちは〈言葉〉に招かれて次元を昇る。この日常生活の、さまざまな煩悶から離れて。逃れて。
そして、そんな〈言葉〉を建材にした構造物 structure を、私だったら「ああ、文学だな」と言うし、あなたたちの誰かも言う。よいお年をお迎えください。

