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それらを名づけたいとも思わない

それらを名づけたいとも思わない

2025.12.27 – 2026.01.09 福島・東京・埼玉・静岡・千葉

この「現在地」での新年最初の原稿をこんなふうなエクスキューズで始めるのは本意ではないが、あまり誰かを憎むことのない私が、ある人物をいま決定的に憎悪していると書く。1月3日に、ひとつの圧(呼吸が止まりそうな圧)を浴びながらそう思った。ちなみに6年前の「現在地」の原稿を、私はいま、あえて回顧する。あえて引用する。こう書いている。

〈何ひとつ予定どおりではなかったことは(……)アメリカとイランの間にあった。私は(……)1月3日にイランの司令官のアメリカ軍による殺害、「こういうのはテロとはどう違うんだろうな」と考えざるをえない爆殺のニュースを知って、「こんな時代に俺は小説というものを書いているのだし、今年、そして来年も、書きつづけるのだ」と思った〉

〈何も終わりにできない〉

〈ドナルド・トランプは本を読まない(……)ドナルド・トランプは歴史を知らない(……)私は、銃器はひとつも持たないけれども文字を綴る、銃弾はどこにも込めないけれども書物を出す、としか言えない。私は、私自身が歴史のなかに生きている作家なのだ、とだけ言う。もしかしたら叫んでいるのかもしれない〉

それは1月3日に起こった。6年前の。そして今年、アメリカは「絶対的決意」と名付けられた軍事作戦をベネズエラで展開した。絶対的決意? どんな決意だ? しかも6年前と同じ日付。しかも、そこからの連続的な態度、宣言。どうしても注目を集めたいのだろう、この人物は。どうしても世界を「変えたい」んだろう、この人物は。

もちろん世界は変わる。しかし私は、私自身の予言をここに記すことは、よす。

私は幸福だけを、ここに記す。

連載詩『火歌』の最新回を模索していて、ある〈死〉に出会う。ひとつの生き物の死骸、しかし、その死骸はいっさいの穢れを見せずに私の前に現出して、私は、長い詩を書かせてもらう。私には祈りがある。私は詩に、祈りを込められる。1月2日から5日にかけての出来事だ。

私はとうとうノンフィクション『あるこうまたあおう』の最終話に臨まなければならない。私は最後の取材旅行に出なければならない。私は「できるのか。書けるのか?」と恐怖に駆られる。昨年末に、福島県内での取材は完了させた。そして今年初めに、そうではない被災地を訪れている、歩いている。1月7日、予兆的な月の出に遭遇する。8日には、日の出を見ることから始める。歩き出す。つぎつぎと、会うとも思わなかったものに会う。かつ友人たちの、もらえるとも考えていなかったエールが随時届けられる。そして日の入りを見る。

今日、私は『あるこうまたあおう』の最終話が、「書ける」と思っている。

私は表現活動において、アイディアを無理に産もうだの獲得しようだの足掻くことが少ない。最近はほとんど、ない。それは自分を調えていれば、世界が届けてくれるものだ、と信じている。しかし、いっぽうで、「欲しいものだけを欲する」人間は存在するのだし、そういう人物は「見たいものだけを見ている」のだ。そうした心性その他について、私は名づけたいとも思わない。