
深みから
2026.01.10 – 2026.01.23 東京・埼玉・茨城
ふと気づいた。自分はつねにこちらの足から靴下を履いているな、と。それどころか靴を履く順番もそうだな、と。それを誰かから「こうしろ」と言われたことはない。そういう記憶がない。なのに、私は、いつだって右足から靴下を準備しはじめて、履き、左足にも履いて、終えている。靴を右側から履いて、左側で履き終える。
いつからそうしはじめたのだったか。
誰かが「こうしろ」と命じなかったということは、自分で「そうした」ということだ。なのに、いつから決めたのか、どうしてその順番以外だと「なにか違和感がある」ようになってしまっているのか、私自身がつかめない。
だから、たぶん、私たちがしなければならないことは、左足から靴下や靴を履くことだったり、「いいや、今日からは意志的に『こちらの足から』と決定するのだ」と、自らに宣言してみることだ。
それをやって初めて、私たちは自分を取り戻す。
私たちは、あらゆる習慣を、いつのまにか身につけてしまっている。ということは、それらの習慣は外部から与えられただけのものだという可能性が高い。私たちは自由に靴下を、靴を履いていいのに、それすら「ちゃんと考える」ということをしてこなかったのだ。
だから、私たちは考える。
少なくとも私はそうしてみる。みんなもそうするようになったらいいなと願っている。
いま『あるこうまたあおう』の最終話を書いている。ずっとずっと深みに潜っている。だいぶ遠いところまで歩いてきた。この1年、どれほど他者に助けられてきたかを痛感する。私はいま靴下の譬えを出したけれども、もちろん自分では〈履けない〉という人はいる。あるいは履かせる対象を〈持たない〉人たちも。その人たちのことを視野に入れない、ということを私はしていない。
その時にも何か、自分で判断できる。
自分でできないことは、他者に助けてもらう、と前へ前へと視線を向けて考えることができる。
いま自分に言えるのは、「凄い原稿を書く」と、それだけだ。来週の金曜日に脱稿する。その日に、脱稿していない自分を、私はいまイメージしていない。

