本当のさいわいということ

本当のさいわいということ

2022.02.26 – 2022.03.11 東京・神奈川・福島・埼玉

昨年の3月11日に発表した映像作品『コロナ時代の銀河』を、英語字幕版・仏語字幕版で、新たに本日(2022年の3月11日に)公開した。もともと朗読劇『銀河鉄道の夜』という活動自体がそうなのだが、あらゆる人たちが、ただ「その情熱は、たぶん、そんなには間違っていないのだろう」との判断で、私や私たちのまわりに集い、助けてくれている。商業的ではない作品が、商業的なラインとはまるで別なところで、複数の外国語に羽ばたく、というのは、なんなのだろう? その答えは出ている。それを「さいわい」と言うのだ。

詩人の和合亮一さんと福島の会津で話す機会を持て、ここのところ私が考えつづけてきた、軽やかさ、というものが、ほぼ無意識過剰なままに会場に噴出した。オンラインのイベントになってしまったのだけれども、その画面の向こうの参加者たちの熱はパーフェクトに感じられたし、会場にいた関係者・報道がらみの人たちの反応も強く、そういう事実に励まされた。けっこう大事なことをしゃべった。この和合さんとのセッションは、なんだか「出発点」だという気もする。私たちはいつだって、この瞬間から出発(再出発)というのができる。それをなんて言うのか? もちろん「さいわい」と言うのだ。

私の新刊小説『曼陀羅華X』は、もうじき書店に並ぶ。ちゃんとそこまで来た。取材を幾つか受けて、これからも受ける。最近は「古川日出男という作家の、総体」を訊かれるようなことも増えた。それはとても、とってもありがたいことだ。まあ正直に言えば、6年前に上梓した『平家物語』と、5年前に出した『平家物語 犬王の巻』と、福島そして被災地全般に関する著作(たとえば『ゼロエフ』)や発言のことと、いまから刊行される『曼陀羅華X』のことと、ほとんど1日おきに語るような日々は、きついと言ったらきつい。しかし、それらどの時期にも、どの作品にも、どんな発言の背後にも、古川日出男はいる。いまは、それを引き受けているんだなと思う。毎日新しい小説のほうを書いているし(これは『の、すべて』だ)、動かしたい大きなプロジェクトも出てきたので、その打ち合わせも控えているのだが(これは大きすぎて、まだ何も言えない)、こうやって抱え込んでいる自分を、時に癒やしながら、まだ前に進みつづけようと思う。こうやって他者が、自分(という表現者=文学者。古川日出男)に関心を持ってくれていること自体が、ありがたすぎる現実なのだ。それを、もちろん、「さいわい」と言うのだ。

『曼陀羅華X』は「本の場所」というイベントで朗読する。両眼の白内障の手術を経てから、初めての朗読になる。きちんと読めるかどうかは不明だが、やってみよう。私の、その手術以前の最後の朗読の姿は、じつはサウンドアート・プロジェクト「GeoPossession 声のトポス」の古川のページというところに無音の動画で載っていて、その映像を観ると、ああこんなふうに動いて(とは焦点を変えつづけて)朗読するなんてことは、これからは無理なんだろうな、と思う。しかし、ここで言えるのは、だからといって朗読が不可になったわけじゃないんだよ、だ。ゆえにフォームを変えながらやる。そうすることになるだろう。この、「できる」ということを、なんと言い換えるべきか? もちろん「さいわい」だ。

じつは当ウェブサイトはちょこっとリニューアルしていて、サイトの扉には雉鳩もやってきた。日本画家・近藤恵介くんが生みの親である。そしてリアル世界の雉鳩荘のほうはと言えば、どんどんと「雉鳩たちも小説的な発想たちも」舞い降りる場に発展している。たぶん雉鳩荘の(いったんの)完成はやっぱり1年後2年後になってしまうのだろうなとは思っているのだけれども、昨日はくろちゃんと名づけた若い黒猫が、うちの庭で初めてうんちをしていった。「誰にも見つからないように」「でも、痕跡は残さないように」と一生懸命だった。なんて愛らしいんだ。若い猫たちにとって(この黒猫は首輪はしていない。ノラだ)、世界はきっと本当に過酷だ。でも、世界はきっと本当に刺激的で、楽しい。そう信じられているこの様態を、なんて言うのか? もちろん「さいわい」なのだ。

ウクライナ情勢のことを考える。私の小説で、ロシア(ソビエト連邦)とそれに関係する国際政治にガッツリとからんだのは、『ベルカ、吠えないのか?』だし『ミライミライ』だ。後者はとくに、核が主題でもあった。相変わらず私は予言的に創作物を出していて、その予言によって得をすることはない。だが、たとえば、小説家になってからの私の初めての長篇戯曲『冬眠する熊に添い寝してごらん』は、原子力発電所のテロが最終的に前景化するのだけれども、そこで私が描いたのは、私が思いっきり本気で埋めこんだのは、祈りだったし希望だった。私は、そういう祈りだの希望だのを、人間だけには限定せずに、犬たちも熊たちも救おうと思って、そうした。私はどんどんとどんどんと、なんでもかんでも愛したい衝動に駆られている。私は、スケジュール的にはいまはもうヘロヘロなのだけれども、それでも、そこだけは枯渇してない、らしい。そういう事実を、私は「さいわい」と命名するのだ。

そうだ、戯曲ということで1点、書き足す。私が小説家になってからの3本めの長篇戯曲というのを、ついに発表に至らせられた。その題名は『あたしのインサイドのすさまじき』というのだ。戯曲というのは、この世に出してさえおけば、いずれ誰かが3次元・4次元的な形にする、だろう。こうした楽天的な見込みのことも、イェイ、もちろん「さいわい」と言うのだ。