誰かがいてくれる。そのことを実感しつづけています。今日(2018年4月26日)は数時間前に、瀧井朝世さんが聞き手のロング・インタビューを受けたのですが、思えば瀧井さんに初めて取材していただいたのが13年と半年前でした。作品は掌篇集『gift』です。おりおり、瀧井さんは僕の言葉を拾ってくれていて、そして、つい昨日刊行された、瀧井さんの著書(である小説家へのインタビュー集『あの人とあの本の話』)に僕のふたつの作品の出版直後の対話も載っていて、それらは、とてもレアかつビビッドで、そういう言葉が、いま、瀧井さんの本によって「ふたたび現われる」ことに、やはり感激します。今日は、過去の20年間の話をしました。また、今日から数えて4日前には、最新刊『ミライミライ』に的を絞ったトーク・イベントを瀧井さんとやって、やはり、それまでは出せないでいた話題・言葉を、瀧井さんに拾ってもらえました。作家をずっと続けていて、その間、誰かがそばにいたのだ、と、ひしひしと感じます。「拾う」ということでは、このサイトに寄稿された近藤恵介くんの私的古川論でも、やはり、その冒頭、僕のおりおりの文字をじっさいに彼が拾って、保管してくれているエピソードが、導入として書かれています。そして、画家の彼が僕のそばに何年も何年もいてくれたことも。あるいは、ここで、やっぱり三田村真さんの話をしてみると(前回のお便りに引き続いてです)、彼もここ数日というもの、ずっと僕との共同作業に没頭しています。三田村さんは、アーティスト名は産土です。DJのウブスナ、と書けば、「はっ!」とする人がいるかもしれない。僕たちが作ろう/コンパイルしようとしている本は、僕の過去20年間の作品(の世界)をおおよそ数百ページ読むことで「たった1冊で通観できるスペシャルな本」なのですが、しかし、そんなものは、よーく考えれば作家本人には作れない。というか、客観的には決して作れない。そこで、このミュージシャン=トラックメーカー=DJに、僕の本をミックスしてほしい、と頼んだわけです。いったい、三田村さんならば、古川日出男という小説家をどのような「像」に落とし込むのか? そのプレ作業が続行しています。ここにも、自分ひとりではできない仕事を、いっしょに、そばにいてやってくれる者=キャラクターが存在する。そのことの、感動。彼らが何かを、拾い、とどめてくれる。そうしたことの、凄さ。僕は、たぶん、自分が他者の助けを借りられているのだという現実に、とても、とても心打たれています。それから、最後に、けさ明瞭に頭に刻んだことを今回のお便りに記します。思えば、自分は切実だった。たとえば小説を必要として、小説を読んだ。演劇に打ち震えて、演劇を観た。映画が何かを満たしてくれるから、飢えながら映画館に足を運んだ。そうしたことが自分にはあった。だから、いまも、そうしたことがある人たちに表現を届けようとしているし、そうじゃない人たちは、たぶん、古川日出男の小説だの、朗読だの、それ以外の表現のいっさいは、「なんだか得体の知れない」ものなのだろうな。でも、それでいい。そうなのです、それでいいのです。そんな僕の痕跡(声や文字)を、いままでも、もしかしたら今日も、誰かが拾って、保存してくれているのだし。きっと、古川日出男の見取り図や取扱説明書は、そうした人たちが、これから出してきてくれるのだと、じゃんじゃん出すのだと、信じられているのだし。
20180426