言いたいことを「型に嵌めない」ということ

言いたいことを「型に嵌めない」ということ

2025.10.25 – 2025.11.14 東京・埼玉・福島

私が年内に発表する文章は、全国区で読まれる/オンライン上のものではない、という2条件をつけると残り少ない。たぶん、ふたつほどだ。この予想が正しければ今月「世界」12月号に発表された論考はその後ろから2番めの原稿になる。だからそれについて解説する。というか、この「世界」12月号が創刊1000号というメモリアルな号で、そこに自分の論考が載せてもらえていること、ある位置づけをもって掲載してもらえていることに感動した。だから触れる。

タイトルは「五年前の夏と今年の夏、核と音楽」であり、3節で構成されていて、真ん中の第2節は今夏イタリアの全国紙に寄稿した文章(のオリジナル、日本語)だ。その日本語の原稿を「日本の読者に見せたい」と編集者に求められる、という、これ自体がありがたい依頼があって、もちろん受けたのだけれども、同時に全面的にアップデートすることにした。第1節と第3節で挟むことで、今年2025年の夏にイタリアの読み手に通用したであろう文章は、果たして普遍的に通用するのか、と自分に問うことにした。国際情勢はつねに揺れて動いている。その振動に対応した場合、自分は自分の発した言葉をどう捉えるのか? どう現状を/世界情勢を把握するのか?

結局、苛烈な文章になった。この〈苛烈〉の意味は私は自分という書き手に容赦がないということだ。誰かに正論じみたことを言う、にはつねに覚悟が要る。だからこそ、私には「自分に容赦する」という発想がない。

結局、この「五年前の夏と今年の夏、核と音楽」という論考は、被害者と加害者という物言いの空転について言及する。そこが核心になる。

あとは本篇を読んでもらうしかないので言及はここまでにするが、被害者と加害者、という2単語を並べる時、私がパラレルに想起するのは〈当事者〉と〈当事者ではない人間〉である。これは東日本大震災以降、ずっと考えていることで、私は自分じしんをそれほど強烈な震災の当事者だと見做したことはない。周囲にはそう見えているのかもしれないが。当事者というのは別にいる、という(私にとっての)事実に対して、どこまで謙虚になれるか、がつねに自分のスタンスの中心軸だった気がする。

前回の「現在地」で私のある種の小説群の〈女性語り〉のルーツについて語った。そこに絡めて以下の話をする。私のけっこう最近の著作に『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』がある。なぜ、こうしたものを私が書いたか/こうした試みに挑んだか、だ。このことはまっとうに理解されたとは言いがたい。まず整理したいのは、この本は決して「NHKの大河ドラマが紫式部を主人公にした」から生まれたわけではない、という(あえて説明するのも疲れる)事実にある。私が雑誌「新潮」にこの原稿を一挙に発表したのは2021年12月である。その3カ月前には脱稿させた。この頃、大河ドラマが『光る君へ』になるという情報など、私はぜんぜん掴んでいない。

女性たちが抑圧されている、という指摘があった。
だから抑圧から解放するのだ、という大きな動きがあった。
しかし動きはだんだんとパワフルになり過ぎて、抑圧されている側だけが解放に与することができる、という流れすら生まれつつあった、と当時の私は感じていた。

過剰なまでの〈検閲〉を感じる瞬間もあって、実際、その〈圧〉は表現を事前に「変更させる」という力を発揮していた。私の作業する現場にもそれらは及んだ。

つまり女性が語り手の「言語表現」の空間に、男性は入るな、ということだ。女性だけが〈当事者〉だからだ。

それはどうも被災地に似ているな、とたぶん私は直覚した。

だが、たとえば中東だのヨーロッパの東端だのの紛争地帯で起きている現実に、「当事者以外は関わらないでよい」と言われたら、それはそれで妙だ。いや、もちろん、これを妙だと言わない人間もいる。「身近な問題にだけ、目を向けろ!」と私(や私に類する人間)を叱咤する人たちはいるだろう。そして、そのアドバイスに従って、国内に目を向けよう。ひどい状況がある。となると、私たちは被害者だ、と感じる。だから加害者を探す。すると加害者候補というのは簡単に見つかる。

ここで私が言いたいのは、視線を遠い外(共同体の外部、外国など)に向けないかぎり、加害者である自分というのは決して立ちあらわれない、という一種のパターンだ。

そこにこそ〈当事者ではない人間〉がさまざまなイシューに心を動かされて、関係し、行動して、なおかつ意味がある、という実際がある。

「紫式部日記」という女性の著作を、男性の作家が現代語訳したら、それは無礼だったりするのか? 私は、するはずはないでしょう、と思って、あの『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』という本を作った。また、誤解が発生しないように、2023年8月の時点で誠実な書き下ろしの自作解題も執筆した。だが、それでも誤解が生じたと幾つかの実例から判断せざるをえない時、ああ大抵の人間が求めているのは「型に嵌まった」発言やスタンスだけなのだな、と改めてうなだれる。

だが、利他的になるためには、たぶん「型に嵌まった」主義、主張の外側に出なければならない。
それは私が、ほんとに思っていることだ。

来年の頭に『あるこうまたあおう』シリーズの最後の1篇に向き合おうとしている。ノンフィクションである震災後の世界のこのシリーズの、だ。そこで私はふたたび歩く必要があるので、10月末からふたたび全身を強度なトレーニングにさらしている。そんな修練は誰にも求められていないし、たぶん誰も褒めない。だがしかし誰かに承認されたいから何かをやる、というのとは、私という作家はだいぶ遠いところにいる。ほんとに思っていることを、ほんとに実践したいという、愚者の一念(コケの一心だ!)みたいなものが私のコアには厳存する。私はいま、自分のメンテナンスにも入っている。その果てに、この地球まるごとをメンテナンスしたいのだ。