シリウス、ベガ、アルタイル
2019.06.29-07.12 東京・北海道(旭川・名寄)
私は53歳の誕生日を迎えた。私には、まず50歳までの目標というのがあり、また、52歳までの、というのもあった。それはつまり、「53歳の誕生日を迎える前日までの」と言い換えられる。その目標に、自分が届いたのかどうかはわからない。が、やれるだけのことはやった。あるいは、やれるだけの手は打った、と言い換えられもするか。そして、53歳になるというのは本当に奇妙で、私はここから先は、具体的な目標はほぼない。
誕生日には北海道の名寄にいた。天文台にいた。望遠鏡を覗いた。シリウスを見た。シリウスはたしか英語でドッグスター the Dog Star と言ったはずだ。私は思わず自分の著作の『ゴッドスター』と『ドッグマザー』を思う。曇天の午後、シリウスは瞬いていた。その望遠鏡を覗いている私の右目は、この2週の間に白内障があるのではないかと疑われ、眼科に行き、「始まっている」と診断され、しかし、まだ見える。いずれ手術をするのだろうが、まだだ。白内障(の徹底した進行)に怯えた10日ほど前、やはり「朗読はそんなに続けられないのかもしれないな」との予想が、きつかった。そうした事態は、ありうる、と肝に銘じなければならないのだろう。そして、私はもう、自力で進める領域など、さほど幅広くはない。
他者の手が要る。他者の助けが要る。そのことを切実に思う。もし、私が視力を喪失したとしたら、私は誰かに口述筆記してもらう。それでいい。そのことも肝に銘じる。自力や自助といった言葉、それはもちろん大事だ。しかし、それだけでは無理なのだ。私はヘルプを求めよう。いちばんは、読者にだ。
岡田利規さんが演出した舞台『プラータナー:憑依のポートレート』を観て、興奮した。終演後、岡田さんに伝えたのは、この4時間ほど(休憩を入れて)の舞台は「それを鑑賞するだけで、観客のリテラシーが上がる」装置のように機能している、ということだった。観劇のリテラシーが、いっきにアップする。その素晴らしさを思い、いろいろ言った。なにしろ私も、「その1冊を読むだけで、読者のリテラシーが上がる」装置のような小説を、いつも書こうと努力しているから。夢想しているから。読者の、文学に対するリテラシーが、その(ぶ厚い、妥協をしない、しかし濃密な仕掛けに満ちた)作品によって、その1冊によって、「変わる」ことを。岡田さんとは、その夜、結局飲みながら何時間か話した。岡田さんは「観客のことは、信じていいんです」とあっさり言った。「観客を信じていいし、読者も信じていい」と。それだ。それなんだよ。いまの読者は難しい小説は読めないから、と見下して本を作り、本を売るような、そんな態度は馬鹿げている。その当たり前のことを、岡田さんは言い、私も言う。
今日はもっともっと書きたいことがある。が、しかし分量は抑える。私は、その天文台で、スタッフの方にいろいろ質問させてもらって、たとえば昨年9月の北海道での地震の際、あのブラックアウトが、北海道じゅうの夜空に、とてもとても美しい天の川を出現させたのだ、とか、それはきっと、東日本大震災の直後の、東北の夜空に見られた、あの満天の星空に等しかったのだろうとか、さまざまに教えていただき、さまざまに想像した。大事なのは、何かが「欠如」した時、それでも「発見」される新たな事象を見出すこと。そこに目を据えること。
据える目(視覚)がない場合にだって、据えること。私は、だから、ここに書きつけるのだ。「あなたに私の目になってほしい。私はあなたの口になるから」と。こんな台詞を、書きとどめて、今回は終える。私は、私のためにも祈る。