未踏ということ

未踏ということ

2020.04.25 – 05.08 東京

歩いている。そして書いている。マスクを着用しながら歩いていて、それは奇妙な感触なのだが、この「奇妙さ」を除けば歩行と執筆はどこかで似ている。特に、私は歩行距離を少しずつ延ばすことを考えて歩いているので、それは長篇小説を書き進めるのに似る。どうやったら歩きつづけられるか? 1歩に、次の1歩を足せばいいのだ。1キロに、さらに1キロ足せばいいのだ。後退(執筆でいったら原稿の「廃棄」や「推敲」)しない限り、結局のところ進む。他にはない。あとは考えずに、歩けばよい。

それにしてもマスクだ。すでに日射しは強い。馬鹿げた話だが、私はこのまま「顔面の下半分は灼けていない」日灼け顔になるのだろう。どうしたものか。ちなみに国が私たち全員に配布するという布マスクは届いていない。私は都内在住だが、何も来ない。どうしたものか。あらゆる人がマスクをしている状況に慣れてしまっている状況下、私は先日、ある驚きに見舞われた。前方からマスクをしていない女性が歩いてきた。その、剥き出しの顔が、どうしてだか「官能的」なものと認識されたのだ。周囲の全員がマスクを着用し、そうではない〈顔〉がそこにあること。その稀有さがもたらすエロティシズム。

たとえばイスラム圏で、〈顔〉を隠すとか、そこまでゆかずともスカーフで髪の毛を覆うとか、そういう文化のなかに生きていたら、外から来た人間が「剥き出しの髪」を示した時に、どのような感覚をおぼえられるのか、が私にはわかった。観光客が不用意に髪の毛をさらしているとか、逆にムスリムの女性に対して、スカーフをするのをやめろと言ってしまう欧州の国があるとか、そこで生じる軋轢のことも、ふと理解できた。たしかにそこには「官能性」があるのに、あるわけないだろう、と言ってしまう外部の存在。その〈外部〉のほうの感覚も理解はできるが、しかしむしろ、逆側を想像することこそ必要ではないか、というような意識が私に芽生える。

たとえば〈本〉がある。〈本〉とはこのようなものだ、という通念がある。そして、私はそんな通念をほとんど4、5年に1度は平然と裏切っている。それよりも頻度は高いかもしれない。だが、そうやって私が「裏切る者」のポジションに就く時、私(や私の産み出す〈本〉)は確実にあるパーセンテージの人々に「想像すること」を促している。違うものがあるんだよ、と。異なる価値観があるんだよ、と。そこにはビビッドに芽生えている感情があって、それを無視してしまうのは、ほとんど残酷なことなんだよ、と。

水戸部功さんデザインの『木木木木木木 おおきな森』の実物は、私のところに届いている声だけを拾っても、大きな反響を呼んでいる。そして、そこから少しずつ生まれる物事の数々、分岐する道の数々。今月発売の文芸誌「新潮」には小澤英実さんの『木木木木木木』論考が掲載された(このボリュームのある論を載せてくれた「新潮」誌に感謝する)。読みながら、終盤、自分は泣いてしまうのかなと思ったら、そういうことは起きず、右腕と左腕に鳥肌を立てていた。私は樹々の繁りに繁った巨大な森を『木木木木木木』という本として用意したわけだが、作者である私も歩んだことのない道を、小澤さんは発見し、分け入っていた。そんな道まであったことに、そんな道を見出してもらえたことに、私はふるえた、のだと思う。

関西の書店で、『木木木木木木』を宣伝してくださっている方がいて、その書店のパネルには、ガルシア=マルケス/ボルヘス/コルタサル/坂口安吾/小林秀雄/宮沢賢治、のイラストに、さらに私(だと思う)のイラストも配されたものが用意されていて、私は、そういうフェアがあることを担当編集者に教えてもらってその画像を目に入れたのだけれども、あっ、と叫んだ。それは、夢のようでありすぎた。それは、たとえば「あの世」に似ていた。死んだら、ああいう人たちと、俺も語れるかな……と夢見るような、そういう他界。うれしかった。驚愕した。できればそういう他界まで、本当に歩いて歩いて歩いていって、辿り着きたい。私は歩いていったら到着できる陸続きの「あの世」をすら、いま、真面目に夢見ている。