雨にもまけず風にもまけず創りつづけるような、そんな

雨にもまけず風にもまけず創りつづけるような、そんな

2023.03.25 – 2023.04.14 福島・東京・埼玉

この3週間、空間的にも時間的にもだいぶ移動した。というのも、3週間の始まりは福島県の浜通り地方であって、そこではひさびさに再会する人や(7、8年ぶりの人もいた)初めて会う人、だけれども深い言葉を交わし合う人たちがいた。で、その半月後にもやはり、私は福島県の浜通り地方にいて、ぜんぜん別なプロジェクトのために、初めて会う……つもりだった人たち、でも、相手はすでにこちらを知っていた人たち、十数年前のステージ(あるダンスカンパニーの公演。そこに私はアフタートークで登壇した)等の話題からスタートできる人たち、等、いろんな人たちと言葉を交わせて、それもやっぱり〈深さ〉の始まりだった。そして私はこの3週間に、福島県の中通り地方にもいたのだし会津地方にもいたのだった。そして雉鳩荘にいて、いつもの生活圏にもいた。が、それ以上に、脱稿直前の『の、すべて』という小説の〈宇宙〉に徹底してダイブしていた。

その小説は書きあがったのだということを、この「現在地」できちんと報告しなければならない。前回は、残りの枚数は30枚ほどだろうかと思っていたのだった。この予想は外れた。45枚だった。最後の執筆の日々、何度も何度も「いや、間違っている」「ああ、ここからは軌道を修正しなければ」「あと少しだ。だが、まだ粘れる。リライトしろ」と自問自答的な厳しい時間が到来しつづけた。しかし天啓にも近い閃きも、それはもう何度も何度も現われて、こちらの想像のつねに半歩先をゆくような、そういうビジョンに案内された。その苦闘の日々は、楽しかった。その苦しさは、幸福感を裏側に具えていた。満足した。私は、本当に満足した。満足して書き終えることができた。

だが総枚数はだいぶ行ってしまって、結局、まとめて「群像」誌上に載せることは不可能で、連載はまだ夏までは続く。しかしまあ、単行本は予定どおり出ると思う。と言っても、どういう見込みを立てているかを私はまだ他人には語っていないのだけれども。ここで言えるのは「今年は作家デビュー25年なので、なんとも楽しい時期っていうのを用意したいっすね。そういうシーズンをね」だけだ。

脱稿して、力尽きて、数日休んだ……り、できたらいいのだけれど、それもまた不可能だった。新人賞の選考があって、私は最終候補作はだいたい2度読むので(同じ作品をだ)、脱稿の翌朝からこの作業に没頭せざるをえず、でも、ちゃんとやった。選考会もまあ誠実に臨めたと感じる。で、その選考会が終わったら休憩を……できたらよいのだけれども、私はこれから毎月、朝日新聞で「文芸時評」を担当するので、ここは正直に書いてしまうが、1日に12時間以上は新刊を読む、という壮絶なモードに入った。その後に福島へ行き、まずは2013年から2015年にかけての「ただようまなびや 文学の学校」や今春のラジオ朗読劇「銀河鉄道の夜」のFMでのオンエアの実現に尽力してくれたあの人たちこの人たちと会って、温かいし優しい時間を過ごして、しかもそこからは今夏のことや、来年のことや、再来年のこともビジョンの種は蒔かれて、それから校歌の作詞をした福島県立南会津高校の開校式に向かって、それが終わったら最初は福島県の中通りの南側の地域に車で移動して、それから中部の郡山まで移動して、それから電車で仙台まで行って、そこから常磐線で福島県の浜通りまで、1時間、ひとりで移動したのだった。

こうもいろいろ書いていると読んでいるほうもシンドいだろうから、この辺りで端折る。とにかく、いまザッと書いたような作業の、たぶん3倍ほどの実際の作業を私はしている。で、疲れているのかというと、若干は癒やされている。それは〈誰か〉との協同作業も多いからだと思う。〈誰か〉とともに〈何か〉を創らんとするプロジェクトに携わっていると、孤独だの孤立だの孤軍奮闘だの、そうした「孤」の罠からは遠いところにいられる。私は基本的に孤児的な体質で、だから「弧」は精神の深いところにある。が、その〈深さ〉を踏まえた上で、人びとと触れあっていれば、私はいつも笑っていられる。

でも、ひとりでいる時にだって、笑えもするのだ。

その日は、福島県の浜通りの新地町にいて、私は東日本大震災後に、ここを定期的に訪れている。最初の記録は『馬たちよ、それでも光は無垢で』内に書きとどめた。その太平洋岸を、その日は朝から昼まで、たったひとりで歩けた。右膝を少し痛めているので、そこには数時間いたのだけれども、歩いた距離はそれほどでもない。でも、海岸を見て、砂浜を見て、流木を見て、鳥たちの声を聞いて、階段をゆっくりのぼって、階段をゆっくり下りて、同じところもグルグルして、日蔭で休んで、突っ立って、座って、ボウッとして、ということを繰り返していたら、なんだか微笑めた。私はその海岸を、あの巨大な津波が襲った直後の姿からしか、知らない。そうした海岸が、何かは圧倒的に変わり、何かは圧倒的に変わらず、そこにあって、私を受け容れていた。私は微笑んだ後に、ちょっと踊りたいと思って、周囲からは散歩の人も釣り人も、ちょうど消えたところだったので、実際に(右足の膝は庇いながら)踊った。56歳になりながら、俺はこんなふうに踊るんだな、と思った。その事実は驚きだった。でも、やはり、楽しい事実だった。あと30年生きて、86歳になってもここを再訪できたら、手足の先っぽだけでもいい、やっぱり踊ってみたいなと思った。踊るように動かしてみたいなと思った。そういう老人になれるかどうかが、ある〈土地〉と真摯に向きあえるかどうかなんだよな、と思って、ある〈土地〉の時間の幅にも触れあうことなんだよなと思って、たぶん少しは泣いていた。