異界・現世・夢の浮き橋

異界・現世・夢の浮き橋

2024.04.27 – 2024.05.10 東京・埼玉

復調について最初に記す。昨日(2024/05/09)はとうとう4キロ弱を走ることができた。いまは無理は一切していないが、このまま肉離れの1カ月後まで静かに全身をきちんと以前の形に戻して、そして2カ月後からトレーニングをさらに本格化させる。それは次のプロジェクトのためであるし、2カ月後まで〈待つ〉のは現在書いている新作の小説の脱稿まで、そちらを最優先させるためだ。だが、ゆるやかにでも走れるようになったこと、そして満足に本気で歩けるようになったことはうれしい。

いま私は書いている。本当に静かな環境で執筆している。低音量で流している音楽はある、のだけれども、私はまず原稿用紙をデスクにひろげて、それからガラスペンを収納ケースから出して、濡羽色のインクのその瓶にひたす。その後は、シュ、シュ、スーッと書きつづける。力を入れてはならない。脳の部位に関しても不用意に息を詰めてはならない。書き、乾かし、修正液を用い、書き込みを同色のインクで入れて、頁番号を書き入れて、次の原稿用紙を用意し、書く。そうやって時間は過ぎるのだけれども、いつもよりも時間が「流れている」と感じられる。

昨日で予定の枚数の5分の2弱に到達した。

いろいろなことがやっとわかってきた。創作に関するいろいろなこと、だ。たとえばこの2年ほど私は〈演技〉に関わることが多くって、それは舞台だったり映像だったりした。映画についても現在ちょっと進行中のものはある。そして〈演技〉というのは大変に不思議だなとやっと理解したのだ。そこに役者はいるのだけれども、演じているのはその人(=彼や彼女自身を、演じて表現する)ではない。当てられている役柄を演じる。その役柄を用意するのは脚本家や演出家や監督で、しかし役者は、その脚本家や演出家や監督がイメージした〈そのまま〉の具合には理屈からいっても演じられない。つまり〈演技〉が誕生させるのは生身の役者でも役者に求められる「理想の像(イメージ)」でもない誰かなのだ。しかし私を含めて、大抵の人間はこのことを誤解している気がする。「イメージしている役になれる」と感じる時、イメージしているのは誰か? あなたか? 演出家や監督か? そして、その役になってしまったら「あなたは消える」わけだけれども、だとしたらあなたがなぜ演じているのか?

こうした発見を、いま私は文学作品にブチ込もうと試みている。いや、おのずとそうなっている。私は小説なら小説で、その作中の人物を自分で用意しているような気がしている。しかし用意された人物が、まず〈役者〉として作中に肉体化されて、その後に、その肉体化された〈役者〉も思っていなかったような役に「超・肉体化」される時、やっと人物(その小説の真の登場人物)は出現するのだ。ステップあるいは次元がひとつ多いのだ。これが多くの作者の語る、あの「登場人物が勝手に動きだす」現象、なのだろう。憑依体質になって書ける、というのは、単に〈役者〉になれる資質を刺激するような段階でしかない。その先があったのだ。

もしかしたら私はここに難解すれすれのことを書いているのかもしれない。しかし、これは心底ハッとする真実だった。

というわけで、ここまで智慧を獲得したのだから、私はもう舞台や映像で〈演技〉はしないのでいいのだと感じた。今後はもっと、荒々しいパフォーマンスや芸術(=インスタレーション的な芸術空間、その内部での肉体表現)の創造によってのみ、ずっとやっている〈ライブの文学〉というものの現前を試みればじゅうぶんだとわかった。いずれにしても、これは相当に凄い収獲だった。

発売中の文芸誌「新潮」に、短いけれどもホントのことと言い切れる、同じような創作についてのエッセイを発表した。しかし、こういう〈創作観〉や〈創作論〉は、随時口にしてゆきたい。たぶん作者と読者の2層が共有することで、未来の文学がゆるやかに起伏するかもしれない、と真剣に直覚しているからだ。起伏なのだから、浮上するばかりではないとの予覚があるわけだが、少なくとも〈現状維持〉の物悲しさよりは遥かにポジティブな行動だと信じている。

あと、じつは先月は依頼があって詩を書いた。その1篇は、けっこうすぐに活字になると思う。

さて、またガラスペンと原稿用紙の世界に戻ろう。そこには墨がある。紙がある。私は1000年前の世界と連結する。