10日後、までの間に残るのは〈1日〉が満ちるという様相だけだ
2024.05.11 – 2024.05.24 東京・埼玉
あと10日後に新しい小説を書き終える。手書きの原稿は予定のほぼ10分の7の枚数にまで到達した。先日は床にインクをぶちまけた。濡羽色のインクだ。それが仕事部屋のラグに痕跡を残している。また椅子のカバーにも少し。それでいい。書いたら消せないこと、の根源にはインクがあって、それは書いても簡単に削除できること、発表したのに「なかったこと」にできてしまう時代の趨勢に猛烈に反撥している。もちろんタトゥーはタトゥーなのだろう、デジタルタトゥーであっても。しかし筆にインクをつけて、書く、という行為は、一瞬一瞬こちらの責任を問われていると感ずる。
もう前半部は編集のキさんに入稿した。そうしないと、デジタルデータが存在しない原稿は、作業の日程(工程上のそれ)を引っぱってしまうだろうから。待ち合わせの喫茶店に向かうまでの間、「この原稿をどこかに落っことさないといいな。置き忘れないといいな」と真剣に思った。忘れたら、その作品は消える。これは本当の消失だ。これが本物の削除だ。そうした真剣さにキさんや編集部をつき合わせている。リアルであることに価値が置かれない時代に、真にアナログに生きることを実践してみている。
せんがわ劇場で第14回演劇コンクールの専門審査員というのをやった。2日間、劇場に通った。その前にも、今年の初めに書類審査と映像審査の予選に関わった。手書きの小説を書いている間、ほとんど「外側の世界」で起きていることに注意を払わないでいるのだけれども、本選の上演の前に届いた5団体ぶんの脚本はきちんと読んだ。真剣に、生の、ライブの、つまりリアルな舞台を作ろうとする人たちが目の前にいるのだから、こちらも真剣に、ライブで、つまり真にアナログに、その生成される時間に向き合おうと思ったし、たぶん、そうした。いい舞台ばかりを観られた。そして、自分で「これには価値がある」と思えたものに、それぞれの分野ごとに何かは授けられた、と感じている。
私が審査員をやっているから応募した、と言ってくれる人たちがいた。複数いた。
泣きそうな思いになった。ありがとう。
この状況下で、しかし文芸時評のための読書、および批評の営為は続けている。読み、読み、読み、メモを取り、掘り下げ、メモを取る。そういうふうに真剣にやることにどんな意味があるのだろう? たぶん、そこには本当にちゃんとした意味ばかりがあるのだ。いつか誰かと言葉を交わせるだろう、といま予感している。たとえば涙はデジタルな次元では流せない、それはそもそもアナログだからと私は、語る前から直覚している。
雉鳩荘の庭ではタケノコがどんどん生えつづけている。それを伐っている。あるいは残している。私は竹とそれから地面と、それから植物動物大気と、ずっと対話しつづけている。