迷宮を産み、迷宮を出る

迷宮を産み、迷宮を出る

2025.09.13 – 2025.09.26 東京・埼玉

私は迷宮を完成させた。今年の7月に「夏迷宮」300枚強を発表して、来月、300枚弱の「冬迷宮」が発表される。いま300枚弱と書いたが、ゲラでだいぶ加筆修正したので、ちょうど300枚ほどかもしれない。が、そんな細かいことは、たぶん読者にはどうでもいいことだ。大切なのは、この「夏迷宮」と「冬迷宮」とで、巨大な『夏迷宮』というラビリンスが完結したことだ。

その迷宮にはミノタウロスはいない。ギリシア神話の人身牛頭の怪物はいないが、すでに「夏迷宮」に触れている読者には周知の事実であるように、魚身人面の怪物は、いる。それ以外にもいる。「冬迷宮」はこの長篇独自のストーリーも内包していて、それはまさに迷路の、迷宮の構造なのだけれども、そこに〈それ以外の怪物〉がいる。いや、正確にはそうではないのかもしれない。まだ発表前の作品のことを間違いを排して記述するのは至難の業だ。しかしながら迷宮は完成した。これで古川日出男は、迷宮の作家だ、ということになる。たぶん『アラビアの夜の種族』以来だ。あの時の私も迷宮の作家だった。それから物語の魔術師と言われたり、言葉の魔術師と言われたりした。この前者は、つまり物語というものを強調している。後者は文体というものを強調している。そして〈迷宮の作家〉のその冠である迷宮は、この小説(「夏迷宮」+「冬迷宮」)では装置である。

装置がこの小説を駆動した。

ひとつだけ誇りを持って語りたい。この小説は、エンディングの1行のその1行前で、完璧な迷宮を成り立たせている。そして実際のエンディングのその行で、完成した迷宮から外へ出ている。

ただ1行で外へ出た。

それを私は、事前に構想していたか? 前々からのプランだったか? 答えは否だ。書いていて、ほとんど〈自我〉をなくした状態で書いていて、そうしたら「出る」という選択をしていた。このことに驚愕したのは作者の私である。

実兄の死のことは前回の「現在地」に書いた。その訃報の1時間後だったろうか、もっと短かっただろうか、私は担当編集者に連絡した。私は、手もとにある手書きの原稿の、区切りのいいところまでを(それは具体的には原稿用紙246枚ぶんだった)先に渡すことにして、印刷所にも対応してもらうようにした。「した」というか、そういう対応を編集者が、編集部がとってくれた。私にわかっていたのは、「ここから自分がどんなふうに書けるか、わからない」ということだった。編集者には「残りは50枚ほどだと思う」とだけ伝えた。その50枚は、もちろん構想は用意してあるが、その構想からは離れる(だろう/はずだ)と確信された。つまり「冬迷宮」はまったき予測不可能性の域に突入した。

私は、その小説を1日じゅう書きつづけているのに、仕事机から離れると「何を書いたのか、思い出せない」のにも近い様態に入っていた。ただし、机に戻り、原稿用紙を前にすると、完璧に思い出す。その
書いた〈宇宙〉に戻れる。たぶんそこは彼岸だった。

彼岸で小説を執筆する、ということを、此岸にいるこの1人の作家がやるということ。

ひとつだけ言えるのは、こういう様態で書いているという情景は、つまり「此岸を超えた世界を内包させて小説を産んでいた」と換言できもするのだ、である。たとえば三人称の小説は、一般的に、神の視点から書かれるのだと言われる。が、私のいま記述した様態は、とうに神など内包している。となると、それは四人称または五人称だった、というわけだ。

いま、私はこんなことを言いたい。もしも真剣に小説を書きたいならば、神様ごっこなど、やめろ。
もはや三人称の小説の時代ではない。

アメリカ大統領その他を見ているとわかるが、現代社会には〈事実〉が複数ある。その複数の〈事実〉をめぐって、内紛、内戦、さらに通常の戦争状態が生まれている。もしも神がいるとして、それは定義上、たったひとつの〈事実〉を御するだろう。100パーセント御するだろう。そうやって、そこに絶対性を示すだろう。しかし、そもそも〈事実〉が複数になってしまっているのだとしたら? それが現在なのだとしたら? この地球の現在地なのだとしたら?

つぎの文学が必要とされている。
そろそろわれわれは気づくべきだ。