そしてRからY:渦巻
結局は「オウム真理教とはなんであったのか」との問いだ。それに尽きる。こうした問いは、たとえば「東日本大震災とはなんであったのか」と変奏させることもでき、「新型コロナウイルスのパンデミックとはなんであったのか」と、じき、多数の表現者たちが変奏するだろう。しかし、こうした記述には嘘が混じっている。私は、「オウム真理教とはなんであったのか」とは、じつは考えていない。こう考えるのだ、……オウム真理教とはなんであるのか?
だって、私は、そもそも「東日本大震災とはなんであったのか」と過去形で問いを立てたりしていない。いつも、東日本大震災とはなんであるのか? と、そう考えている。それから、私は「新型コロナウイルスのパンデミックとはなんであったのか」と現時点で考えることの馬鹿さ加減に、もちろん自分で気づいていて、これは明らかに、新型コロナウイルスのパンデミックとはなんであるのか? と記述しなければいけない類い(の問い)なのだ。
私にとって、結論は最初から見えていた、とは言える。修正された問い=「オウム真理教とはなんであるのか」と考えることは、「救済とはなんなのか」を考えることに通ずる。むしろ、ふたつは等しい設問なのだ。後者に対してオウム真理教なりに解答したのがオウム真理教なのであって(このフレーズは禅問答ではない)、「その救済は、救済ではない」と答えたのが、非・オウム真理教=当時のおおかたの日本人だった、と言えるのではないか。
こうイメージしてもらおう。この日本の、一九八〇年代後半から一九九〇年代にかけて、世界観の異なる集団が私たち「日本」の内側にいた。その集団は、私たち(とは「日本」に属するおおかたの日本人だ)を攻撃しているように見えたので、私たちはその集団を攻撃した。結果的に。結果的、かつ絶対的に。そして〈絶対〉という言葉は、私には宗教に属しているように思える。私たちは「相手の土俵で闘った」のだ。
ある日、私は畏敬している人物であると同時に、同時代の戦友のようにも感じられる翻訳家の柴田元幸さんに、「自分は、あのオウム真理教ですら『悪』として書けないのかもしれないのです」と苦しみを吐露した(公開の対談で)。だが、それ以前に、ある瞬間に柴田さんは私信のメールにおいて、私に「原子力発電よりも、(古川日出男という作家は)幻視力発電!」と励ましの声を送ってくれていた。私はその、幻視力発電、なるフレーズにこそ、上記した〈絶対〉なる軸を転倒させる何事かが孕まれていることに、対談の数日後に気づいた。
そこから私は、渦に巻き込まれるように『曼陀羅華X』なる小説をひたすら前進させる。