犬王の巻は変容する #02

新作能

この写真がいったい何なのか、を解説すると、これは『平家物語 犬王の巻』レベル2(第2稿。原稿用紙に手書きだった初稿からの、完全飛躍版)用の創作メモの1枚である。頭に「曲名」とある。これは、もちろん、能楽の1作品を数える単位としての〈曲〉だ。みっつのタイトルが羅列されているが、刊行されている私の『平家物語 犬王の巻』をひもとけばわかるように、そんな作品はいま現在の『犬王の巻』の内部には存在しない。たとえば「重盛」「腕塚」「鯨」「竜中将」はあっても、だ。

私が、湯浅政明監督の劇場アニメーション『犬王』を痛快だなと思うのは、劇中の能のステージがわれわれのイメージする能楽の舞台では全然ないからである。そして、私の理解するかぎり、犬王たちの「いた」時代の能楽(猿楽)のステージは、われわれが現在観ている能楽のそれとは異なる。もちろん、だから室町時代にロック・オペラのような能楽(猿楽)があったよ、とは私は思わないのだけれど、「現代の自分たちの『イメージ』からはかけ離れている」という、その隔たりを、頭で理解させないで〈体感〉させるためには、結論を言えば「おんなじ距離だけで隔たっていたら、どっちに離れていたっていいじゃん」と暴走してしまうのは、かなり正しい。

いっぽうで私は、じつは、劇場アニメーション『犬王』の原作となる小説『平家物語 犬王の巻』の起筆のおおよそ三カ月前に、とある能楽堂に新作能「犬王」の売り込みに行ったことがあって、もちろん正規のルートを通して、かつ後見人となるべき方もごいっしょして、だったのだけれども、結果を言えば「けんもほろろ」的に断わられた。私は、たぶん「一介の小説家に、能の新曲は書けないよ」とも思われたのだろうなあと邪推して、そのことはあんがい素直に根に持った。だから、私は、自分の『犬王の巻』には本当にそのままステージにのせられるような「正統派の能」の種をいっぱい蒔いてしまおうと考えた。

それが現在の、『平家物語 犬王の巻』内に収められている「重盛」「腕塚」「鯨」「竜中将」であって、だから私は、モチベーション的には相当ぶっとんではいたが、これらはいわゆる能楽の舞台として成立している(はずだ。著者自身としてはそうイメージする)。だが、そういうヤバめのモチベーションを抱えていた当時の私だから、没にしたネタも多い。それがこの写真の、「大仏頭」「ひよどりの馬」だったりする。

「ひよどりの馬」についてだけ解説すると、これはもちろん、一の谷の合戦の際の、源義経のあの〈ひよどり越えのさか落とし〉のエピソードから題材が採られている。すさまじい急傾斜の谷があって、義経は「よし、ここから下って平氏を攻めるぞ」と提案するのだけれども、配下の者たちの間からは、こんなところは馬は下れないでしょうとの正論が出る。すると義経は、その谷を下って(歩いて)いる鹿を見て、「鹿が下りられるんだから、馬も下りられるだろう」的な屁理屈を出し、これを聞いた義経騎乗のその軍馬が、「え、マジすか?」とびびる、という新作能だった。