カオスの産み手に挑む

カオスの産み手に挑む

2025.03.15 – 2025.03.28 東京・埼玉

誰かから「生まれ変わりを信じますか?」と問われたら否と答える。しかし生まれ変わりはあるのだと仮定しよう。ここで問題になるのは「どうして未来にしか転生できないのか?」だ。たとえば過去に生まれ変わってもよいのではないか。とりわけ、自分がこれまで生きてきた何年か何十年か前に〈ゼロ〉の状態で生まれ変われれば、現在よりもその人生を「うまくやる」ことが可能になる。ところが、何年か前のほんの昔、何十年か前のそこそこ昔、に目を向けると、かなり〈余白〉が失われている事実が判明する。というのも、私たちはこの数十年、過去を「記録する」ということをやってきた。写真があり映像があり、インターネットとSNSの隆盛以降は、ほんとにビジュアル(そしてオーディオ)の記録データがこの世界を埋め尽くさんとするかの勢いで残された。

ということは、何か?
ということは〈余白〉がないのだ。

転生するための世界の〈余白〉がどんどん消失している。だから私たちは過去には生まれ変われない。いま、ある意志をもって、走行してきた車に突っ込んで、自殺して、それで22年前の東京のどこかに赤ん坊として「おぎゃあ」と誕生して、さあうまくやるぞ、今度こそ! ……ということができない。ちなみに21世紀以降の消費社会は、ひたすら「余白を消す。余白に投資させる(たとえばスキマ時間にありとあらゆる動画を鑑賞し、ありとあらゆるゲームをやる)」ということをやっているから、この地上には〈余白〉はないのだとも極言できる。するとどうなるのか?

この地上には存在しない〈余白〉に目を向ければ現世の束縛を断てる。というわけでイーロン・マスクは宇宙に出た。スペースXというのはそういう事業である。さすがだなと讃えるべきか。

そしてドナルド・トランプがいま行なっているのは、誰もが「そんなことはやらないでしょう」ということをやる、のひと言にまとめられて、すると何が生じるのか? この地上にカオスが生じる。カオスが産出されればそこからは既存の秩序が剥がれるから、つまり〈余白〉は必ず生じる。それを「巨大な可能性だ」と見ているのがこのアメリカ大統領で、しかもカオスの産み手となっていれば、ちゃんと手綱を握れる。

というふうに私は現代社会を観察しているのだけれども、しかし私は「生まれ変わりを信じますか?」と問われても「いいえ」としか答えない。いま現在生きている私がいて、この私と関係する多様な人びとがいて、すなわち〈現世〉だの〈此岸〉だのが間違いなく存在していて、そのうえで〈余白〉をたっぷり生じさせる、ということを私はやりたい。

それが文学で、できるのか?
文化、すなわち(広く)芸術で可能であるのか?

今日は2025年の3月28日で、この日の朝、朝日新聞に掲載された「文芸時評」をもって私の2年間の〈現在の文学〉に関するレポートは完了した。私は上記のふたつの質問(「できるのか?」「可能であるのか?」)に、ある答えを出している。あえて太字でここに綴る。アスファルトを剥げ。私に言えるのはそれだ。

繰り返す。アスファルトを剥げ。