この、誕生日

この、誕生日

2025.06.28 – 2025.07.11 東京・福島・埼玉

今日(2025/07/11)は私の誕生日で、50代の最後の1年を迎えた。そんな日に何をやっているかというと、さっきまで壮絶に書きつづけていた。7月1日から新作の小説執筆に入った。その小説が、昨日の午後、私に信号を発してきて、「どうも自分は道筋を誤っているのではないか」との動揺に落ち、実際、夕方からまとまった枚数を書き直して、食後の午後9時前にも推敲の作業をやって、「これで大丈夫だろう」と思ったのだが、まともに眠られなかった。ということは、自分は間違っているのだ。今朝、起きて、睡眠不足ではあるのだけれど精神統一して、結局、目の前にある章をその2枚めから書き直す、という壮絶な作業に入った。

たぶん今日はいろんな人から連絡をもらっているのだけれど、私はぜんぜんメールも見ていない。昨日の夕方から全部の作業は、小説を除いて、停止した。これから読んだり返事をしたりするので、みなさんすみません。それで、書き直しのことだけれども、原稿用紙に万年筆で書いているから、もちろんコピーしてペーストする、などの抜け道はない。15枚以上の原稿を、その(書かれている)全体を頭に叩き込んで、やり直す・練り直すというのが、どれほど苛酷なプロセスなのかは、たぶん味わっている当人にしかわからない。言えるのは、さっき作業を(少しは残ったが)終わらせて、すると両足が極度に疲労していて、これだったらトレッドミルを走っているほうが楽だな、と感じたことだ。私は結局、全身で書いている。全身全霊で書いている。

誕生日にこれかよ、と思うのだが、それなのだろう。ちなみに昨年の誕生日は、歩行のトレーニングの強化中で、炎天下に17キロ歩いた。吉祥寺から、歩いて雉鳩荘に戻ったのだった。ああいうのも、誕生日にこれかよ、ではある。楽しかったが。

いや、今日も楽しいのだ。だって、小説の軌道は戻った。これでたぶん、新作もまた、正しい〈入り口〉を形成しつつある。小説であれ詩であれ、その〈入り口〉は私にとっては聖なるゲートだ。つまり鳥居だ。絶対に穢してはならない、と、そういうことだ。

それで、報告が遅れているのだけれども、『夏迷宮』300枚超は無事にこの世界にドロップされた。7月7日発売の「群像」誌に一挙掲載された。うれしい。感動している。だがしかし、現実世界の、つまり世界情勢の凄絶さは、私に甘えるな手控えるな、備えを忘れるなと言っている。でも、ひとまず、周囲の反応にほんとに感動している。

山村浩二さん監督の「とても短い」がベルリンで開催されたゼブラ・ポエトリー映画祭で最高賞を受賞した。そこには実写の、長篇映画も実験映画もドキュメンタリーも競争相手としていて、けれどもアニメーションの「とても短い」はザ・ベスト・ポエトリー・フィルムなのだと認められた。心が震える。自分が、詩とはなんだろう、と問う時、浮上する回答は複数あり、そうした〈即答〉が可能だから自分は詩が書けるのだと思うのだが、そして実際、「現代詩手帖」の連載「火歌 hiuta」は今月も書かれて入稿されたのだが、そのゼブラ(縞馬だ!)の詩映画祭で、芸術的アプローチの詩である、と評価された映画の、テキストと声とを自分は形にできた。応募作品は1000本以上、しかも90カ国以上からだった、とアナウンスされている。やっぱりそこは、徹底的に感動するのだった。

そうか。これは誕生日プレゼントだな。おめでとう、自分。

そして、詩人としても小説家としても、朗読の〈声〉を発する人間としても、今月も来月も、やることがある。やれることがある。

やれることを用意してくださる方々に、そして状況そのものに、心から感謝する。
今日の、私の心底からの希望は、世界を再生させて「ハッピーバースデー」と歌いかけることだ。