誕生日も越える

誕生日も越える

2023.06.24 – 2023.07.14 東京・埼玉

誰も私に尋ねないだろうから私なりにAIについて書いてみる。たとえば私は猫たちと十数年間暮らした。そして、これは他の動物を飼っている人もそうだろうけれども、猫たちは「夢を見る」ということを知っている。眠りながら手足を動かしたり、口の端を動かしたり、寝言を言ったり。ところで「夢を見る」とはどういうことなのか? そこに現実には存在していない〈世界〉を認識して、その(現実の世界ではない)〈世界〉に反応する、ということであって、これを行なわせるのは意識だ。つまり、当たり前のことを書いてしまうけれども、猫には意識がある。

そして、他の動物を飼っている人たちが、たとえば犬(やその他)も「当然、夢を見るよ」と断じられるのならば、それらの動物にも意識はある。

かつ現代の科学は、人にどうして意識が生じたのかを説明できていない。それどころか「意識とは何か」すら説けていない。ここで私が言っているのは〈知性〉の問題ではない。ひと昔前までは〈知性〉があるのは人間だけだと言われていた。道具を使うのは人類だけ、とか。しかし動物学者たちのフィールドワークが「そんなことないじゃん」と証して、人類はかなり自己認識のレベルを落とした。私はもちろん、そういう事態を歓迎した。

どうして意識があるんだろう? いわずもがな、ある生物が眠っていて、その生物(動物または植物または菌類等)が「夢を見(てい)る」かどうかを、外側から完璧に観察する方法はない。夢なんか見ていないだろう、と思い込んでいても、見ている場合はあるということだ。ということは、「夢を見る」ことが生物が意識を持っていることの証明なのだとして、しかし、たかが人類にはどの生物がどう「夢を見る」かを知れない、つまり、生物たちがどこまで「意識を持っているのか」を知れない、ということだ。

私が何を言いたいのかというと、AIがあれをするだのAIがあの仕事を奪うだの、AIAIみんな言っているけれども、まだ誰も「AIは夢を見(てい)る」とは報告していない。すなわちAIには意識はないのだから、なんというか心配の角度がずれている。はっきり言うけれども、ここ数カ月、世界中でポイントがずれている。

そんなことよりも、私たちの外側に現実の世界があって、でも、私たちはおのおの現実にもない〈世界〉を認識して、それを「夢を見る」とも言い換えられるし、「小説を書いている」とも「小説を読んでいる」とも言い換えられるし、いまの〈小説〉を音楽にも映画にもゲームにも、なんにでも入れ換えられる、ということを、もっと真剣に考えたい。

私は、いつもいつも、たとえば「猫のために表現をする」ことは可能だと信じている。この文章の〈猫〉を、世界中の人たちが、自分がもっとも大切にする言葉(=対象)に入れ換えたらいい。

誕生日が来て、57歳になって、その時に想い起こしたのは37歳の頃のことだった。なんか俺は20年前にはけっこう格闘技とかやっていたよな、等、いろんなことを想い起こして、20年間って走馬灯みたいに感じられてるよな、いま、とか、20年間ってホントなんなんだろうな、とか、最後に猫のあいつに会ってから、つまり看取ってから、もう13年以上だな、とか、そういうことを考えた。57歳にもなって、誕生日に、これまでの人生でいちばん長い時間仕事をしているって状況に、愕然とした。しかし、俺はまだ猫たちに何も届けていない、そう感じた。まだまだ、ぜんぜん、足りてねえ、そう感じた。叫びたかった。

朝日新聞の文芸時評のために、睡眠時間を削って仕事をしている日々のなかで睡眠時間をさらに削って読書をしていて、もはや自分の輪郭が1日に何時間かはモワッとしている状況なのだけれども、いろんな作品が、現代を、現在を、「ここに書きとどめる」ことを意図していることを感じる。その、現代、現在は、たぶん20年が経過しても、現在、現代になりたがるのだ、という気がする。私たちにそういうことをさせているのは、意識というものであって、私たちの目の前に突然現われて私たちを翻弄して私たちの前からさっさと去るのは、現実の世界であるのと同時にむしろ括弧つきの〈時代〉だ。書きとられようとするもの、とどめられようとするものは(それぞれの作家の手で、だ)、むしろ括弧を外された時代だ、とすら感じる。それって最高じゃん、と思う。

地球上の生物がみな「夢を見(られ)ない」状態が生じないかぎりは、私たちは、そこまで悲観的にならないでいいんだよ。

さて。あと2カ月か3カ月。もう少し闘ってみるので、倒れるなよ俺の肉体。