夏・真夏・夏

夏・真夏・夏

2023.07.29 – 2023.08.11 東京・福島・埼玉

舞台『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ』の芝居パートの役者陣で稽古をしたのが7月29日で、その翌日から私はメンバーに先駆けて福島県の浜通りに入った。だいぶ長い期間、そこにいた。というか今日(2023/08/11)は私の誕生日からちょうど1カ月が経過しているのだけれども、とても「たった1カ月」には感じられない。その体感は4カ月ほどである。時間として、確実にその程度は経ったと感じている。それは、記憶もそう感じているのだし、脳も、そして肉体も。なにしろ身体の疲労は極限まで行った。雉鳩荘に戻って、翌日の深夜12時頃に、右肩を脱臼した。それは単に入浴後にパジャマに着替えている瞬間に、だった。まあ、言ってしまえば、心身ともにやっと気が抜けたのだと思う。ちなみにいまは快復した。

小説を書いていると孤独だ。このことは事実だから記しておく。いっぽう、集団活動(集団での創作)はその対極に位置していて、私は福島入りしてからの毎日、特にステージのある日には、数十人と言葉を交わして、どんどんとやりとりして、そして密な時間を生きていった。いちばん近いところにいるのは、たとえば『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ』ならば出演者の管さん、小島くん、柴田さん、後藤さん(ゴッチ)、北村さんなのだけれども、しかし朗読劇『銀河鉄道の夜』は支えるスタッフから成っているから、スタッフに意見を乞うことも多い。かつ、私は演出家だったから、それ以外のスタッフにもいろいろとお願いをし続けたし、常磐線舞台芸術祭の運営の人たちとも話したり挨拶したり、ホールの人に挨拶したり、だから、本当に密に密に人と触れあっていった。そうでないと生まれないものがある。そういう「そうでないと生まれないもの」がある現実が、うれしかった。

私は、著作を出した後に、その小説(なり何なり)を本当に理解してくれる書評に会うと、心の底から感激する。「励まされる」というレベルを超えていて、誰かが理解してくれて、かつ、言葉に換えてくれている現実に、著書だの自分という人間だのが「(この世に)いてもいいのだ」と言ってもらえたと思って、そこで感動しているのだと思う。私はいろんな意味で、自分が(この世に)生まれてきている事実に時どき本当に驚愕するので、「いてもいいよ」と言われないと、ふと消滅するような感情に襲われる。だから、たぶん、私には〈本〉はこの世界あるいは他者との真の交流ツールで、だからこそ命懸けで書いている……んだと思う。今回の新地町の観海ホールでの『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ』は、なんだか素晴らしい出来だった。「それをお前が言うのか?」という声は聞こえるけれども、3日前に福島民友紙の文化面に劇評が載って、それが、「そういっても、いいんだよ」と囁いてくれていて、だからいま、こう書いている。ああした批評(言葉)がどこかに現われること、残ること。そのことの奇蹟を思う。もしかしたらネットには流れていない舞台評なので、それもそれでいいなと感じている。まず、あの新地という町に私たちの〈協力〉が産みだした舞台があった。それを観てくれた人たちがいた。そして3日前に発行された福島県の新聞があって、その紙面に、その文章をしたためてくれた人がいた。読んでくれた人もいた。

なにか、もう、それで十分だ。
私は、この私たちの時代は、なんだか滅茶滅茶に〈数〉に縛られすぎているんだと思う。

『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ』のあとはゴッチとの「ボイス・オン・ボイス」で、このプロジェクトの名称は私の命名で、要するに声(ボイス)に声(ボイス)を接触させたい(オンしたい)ということで、それは舞台に立ったふたりの声だけじゃない。かつて駅があって、ある時期、駅が消えて、いまは別の駅がある、そうした界隈で、過去のありとあらゆる声と「ON したい」との願いが、祈りが、そこには込められていた。それを果たすために、たとえば富岡町のゴッチは極限まで祈ることを、魂を鎮めることを考えていたと思うし、それはふたりのマイクのスタンドに飾られた花に全部あらわれている。あれはリンドウの花だった。(舞台上に)連れてきたのはゴッチだった。そして私は、富岡では、かなりの部分震えていた。そして私は、新地では、かなりの部分解き放つための媒体(メディア)になろうと意を決していた。どちらも何かができて、ふたつの舞台はまるで違った。内容的にも4分の3は違う音だったし、違うテキストが読まれていた。

そういうステージの現出のさせ方も、要するに、いわゆる〈数〉からは離れたところにあった。
それでよかった。それがよかった。

富岡には講談社の編集ミさんが来てくれて、その、来場のための常磐線は60分ほど遅延して、たぶんミさんは〈遠さ〉を極限まで体験してくれて、でも、だからこそ〈近さ〉にもっとも接してくれたような気がする。他にもいろんな人たちがいて、そういう場が8月のあの日に、この日に、その日に、そのまた別の日にも生まれて、そういうのは全部、これからの自分の〈小説的な孤独〉のための準備だ。もちろん私は、しっかり孤独に臨む。それは、そういうことをしない人間は、多数の人を指揮するような立場に立ってはならない、そういう機会を得ることも許されないのだ、と、私は極めて個人的に考えているから。

ここまで書いたところで、「私はこれから執筆に専念する」みたいに締めたら恰好いいんだろうけど、そういうわけでもない。私が俳優として出演した映画『トシエ・ザ・ニヒリスト』がとうとう日本公開になって、この短篇は海外でけっこうな数の賞をもらっているのだけれど、監督のマシューと、舞台挨拶を兼ねて明後日(2023/08/13)はけっこう話す。雉鳩荘に越すことを決めた一昨年の秋、マシューに連絡したら、「引っ越す前に会いたい!」と言ってくれて、前の住居のあった街で私たちはビールを呑んだ。最初からそうだし、前もそうだし、いまもそうだし、たぶん先もそうなんだろうけれども、マシュー・チョジックは優しいやつです。だから私も、映画に出るなんて冒険もしてみた。誰かがさせてくれる冒険が、新しい挑戦が、私は大好きだ。