夏の持続可能性

夏の持続可能性

2023.08.12 – 2023.08.25 東京・埼玉

それにしても長期的に維持可能なこの「夏」というのはいかがなものかと思う。むかし私は『サウンドトラック』という自作に、ヒートアイランド化した東京を出して、東京では四季が失われて夏以外の季節は〈非夏〉と呼称されるようになった云々と書いた記憶があるが、またも予言的中だ。なんというか「夏」のサステイナビリティに唖然とする。こういう言い方はもちろん皮肉だけれども。雉鳩荘の庭では2本のサンショウのうちの1本が枯れたり、とにかくペアのかたわらが突然〈生命〉をうしなうということが続いていて、これはこれで何事かの予兆のような気がする。私たちはついつい、「え? でも1本は生き残ったんでしょ。じゃあ平気じゃん」とか言いがちで、じつは半分が死んでしまうというのは自分たちの暮らしている世界が〈二分法〉の未来しか持てないでいるということを意味している。

滅びるか、滅びないか。死ぬか、死なないか。それだけだという現実。私は、これはどこかにもちょっと声明を出したけれども、誰かの味方か、それとも敵かという〈二分法〉に対して、基本的に(ではないな、絶対的に、だ)批判的である。そういうものは排斥の論理と言う。その手の論理は、私たち人間に「論理的に考えること」をさせないという傾向を持つ。いやはや、論理的に考えさせない論理……。つまり、あれだよ、そこにだけは引っかからないほうがいいぜ。「君はわたしの味方なのか、敵なのか?」なんて問う人間に、それほど人格者(とは道徳のある人だ。ここで言ってるのはドメスティックな道徳教育の、あの道徳じゃない。哲学的にも極められた〈倫理〉のことだよ)っていうのは、いないぜ。

ところで私のスケジュール面の現況を伝えると、とうとう数日前に初夏から続いていた修羅場というか鉄火場というか、いや鉄火場は間違いなんだけど、なんかもう「無理なんじゃないか」「死ぬこともリアルに考えられるんじゃないか」「丁(偶数)か半(奇数)かとか問われても、それ、二分法なんスけど……」の危機はたぶん後景に退いた。じゃあ暇になったのかと問われれば「いや。普通に忙しいって状況スかね」としか答えられないが、まともに睡眠時間は確保できている。やった!

そして新刊の小説『の、すべて』は、ついさっき、なにかデザイン周りの最後の文字校正のようなお願いが担当編集者のミさんから入っていたが(すみません、この「現在地」を先にこなします)、とにかく2度めの校正刷りも渾身の力でチェックし終えた。朱字ばっかりで本当にすまないし、編集部・出版社にもうしわけないのだけれども、発売日は遅れない。「遅れさせない」ためにみなさん頑張ってくれているらしいので、ほんと護国寺方面に足を向けて寝られない。もともとベッドの向きがそうではないけれども。そして、装幀だ、この『の、すべて』の表紙や扉や目次や、もう全部だ、水戸部功さんが凄いのをもって来た。最初から信頼していたけれども、ほんと、なんか送られてきたデザイン案を見た直後に「さあ、今日はもう、これから呑もう!」と思った。デザインというのは、本の〈顔〉で、その〈顔〉に関しては、だいたい著者の私の遺伝子は継いでいない(ことが多い)。すばらしい〈顔〉、クラシカルな〈顔〉、そして、それを超えた〈顔〉。そして古川日出男のこれまでの〈顔〉に、それはちょっとしか似ていない。感激する。

私は今日(2023/08/25)は何をしているか? 何をしていたか? もう情報は少しは出していいと思うので、素直に言ってしまうと、午前中は『平家物語』の作業をしていた。拙訳のあの単行本が、分冊化されて、この秋(のどこか)から出はじめる。しかも私はそれぞれの巻末に書き下ろしの原稿を収録させる。連載原稿である。そういうのをやっているからスケジュールも極限に行った。もうひとつ。これは今日の午後の、さっきまでの作業で、私は『源氏物語』とその著者に関係する宇宙に沈んでいた。じつはこの「現在地」の執筆を終えた後、今日はそのまま再度その宇宙に戻るが……。

というわけで、来月の下旬から、いろいろと、はっきりと、文学のシーンに私はこの私の著述、表現、そういったものを投下し出す。そういう意味では、作家デビュー25周年は、いよいよここから始まるのだ。本気で。今年の古川の真の〈無謀の季節〉は秋から冬ということで、よろしくお願いします。……ってことは、だからね、このサステイナブルな「夏」が終わらないと、やっぱり絶対にまずいわけでね。うん、論理的に。