雉鳩

雉鳩

2023.10.14 – 2023.10.27 福島・東京・埼玉

福島県の須賀川市から郡山市へ、郡山市からいわき市へ、いわき市から大熊町、双葉町へと移動しつづけながらこの2週間をスタートさせた。そこで体験した事柄はあまりにも錯綜していて、あまりにも深く、あまりにも胸に沁みたり、あまりにも消化に時間がかかったりしているので、果たして、いつか文章にできるのか、それも予想できない。しかし、もう、動いている。そんなふうに「動きだしている」ものを続けようと思う。もちろんこの期間、来月下旬に発売される単行本の『紫式部本人による現代語訳「紫式部日記」』も動いたし(装幀、帯が固まり、2日前に責了した)、文庫の『女たち三百人の裏切りの書』も動いた(装幀、帯が固まり、あとは某パートの再校ゲラを見るだけだ)。しかも連載の『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』の準備、そして執筆にダイブした。その前に朝日新聞の「文芸時評」のために、さまざまな本を読み、一部の本は2度読み、これは今日(2023/10/27)その原稿が紙面に掲載になった。

今日。やはり今日のことは書かなければならない。今日は、雉鳩荘に転居して2周年なのだ。その記念の日なのだ。この2年で何もかもが変わったなと思う。それは変えたかったから変えたのだったし、こちらの意図とは別に変えさせられた部分もある。たとえば、私は雉鳩荘に越して「ゆっくり」しようと思っていた。だから都心とも言える杉並区を離れたのだ。しかし、私はこの2年間、志したように「ゆっくり」できたか? たしかに日々、植物たちと関係している。鳥や、その他の獣類とも交われることがある。が、結局のところ都心時代をはるかに超えて、多忙だ。だけれども、言えることは、私は今日のこの「現在地」の原稿をアップしたら、そうしたらホント「ゆっくり」するよ、だ。寝るまではね。美味しいサラダなんか食べちゃってね。

10月21日のことを書きたい。その日、小さい空間に30人ほどがいたのだった。そこは歴史ある建物の1室で、かつては旅館でもあったのだった。その建物は磁場のある土地に建っていて、通りを挟んで靖國神社がある、かたわらにインド大使館がある、窓から武道館が眺められる。そして、それだけではない。室内に書が飾られていた。なぜならば華雪さんの書展「そこへ」のオープニングの日だったから。私は午後、この空間に入って、華雪さんとも相談しながら、椅子やテーブルのようなものを配置して、自作の本(たいてい分厚い)を配置して、他にもライト類などを配した。床には華雪さんの制作スペースを確保した。要するに空間を作っていた。要するにインスタレーションだった。そして人びとは集まった。写真を撮るのは不可、スタッフ側も撮らず、動画も、録音もされなかった。みな、真剣に見た、聞いた。華雪さんがカンバスに字を書いていて、これは最終的に見事な〈作品〉となる、だけれどもカンバスに書かれたものは書なのか? との問いはほとんど意味をなさない。なぜならば、私は朗読をしつづけたし、それはこの日の、世界情勢的にも〈この日〉でなければならなかった文章群、エピソード群の連鎖、連結からなっていたし、華雪さんは「書く」という行為を、呼吸する・呼吸しない・動いている・動かない・気配がある・気配がもっとある、といった様相に変えつづけていて、私は私で瞬間瞬間は何も読まず、その場でしゃべっていた。「語るべきこと」があったら、そっと口にしていた、歌ってもいた、そして私もまた動きつづけていた。そして集まったオーディエンスはみな、(これはもう描写したけれども)見ていた、聞いていた、どんどんと吸い込んでいた。

凄い時間だった。意味のある時間だった。「美しい瞬間が、あって……」といろんな人に言われた。そして、それらはいっさい記録に残らない。そして、それらはごく少数の人にしか、体験されていない。分かち合われていない。この事実はこうも言い換えられる。「その日、その場に、ごく少人数が集まって、なんら記録も残らないからこそ、そのような未聞だったり未踏だったりする時空は、生じた」と。

10月25日に発売されたレコード『A面/B面〜Conversation & Music』についても解説しておきたい。向井秀徳さんとのあの作品は、「現場で、そのまま直接、レコード盤に刻む。失敗は許されないし、尺(およそ20分)を超えることもできない。かつ、リハーサルも行なわれない。衆人環視の場である。真の即興である」等の、さまざまな条件下に作られた。こうした背景を知らずにあのレコードに耳を傾けると、あまりに異様な世界(の圧)にギャッと思うと予想する。それはそれで、いい。ただ、本当のホントに「あとから綺麗にする」だの「ちょっと加工する」だの「実はライブ・セッションに見えながらも台本がある」だの、そういうのとはぜんぜん違うこと=表現が行なわれて、そのことがビニール盤に封じ込められたのだよ、とは言っておきたい。ここで言えることは、私、古川日出男もその男、This is 向井秀徳も、いわゆる〈嘘〉とは別次元で演奏している、読んでいる、語っている、聴衆と向き合っている、そういう事実だ。そういう真実だ。ゆえに、あんな頓狂なセッションになった。ゆえに、昂揚しまくりのセッションになった。聴き直すと、2022年をしょっちゅう「2020年…」云々と言い間違えていたりして、呆然となる。天を仰ぐ。だが、それが要するに〈真実〉だってことだ。

そして雉鳩荘に転居2周年の今日、文庫『平家物語・2』の見本が届いた。ここに描き下ろされた松本大洋さんの平清盛の凄みは、どうだ。そして、自分が書き下ろしている「後白河抄・二」の、いまだから何かを語らんとしているアティチュードは、どうだ。さて。今日も昨日も一昨日も、私は仕事部屋の窓から、野鳥たちの歌声を聞いて、小説を書いた。早朝には、雉鳩たちが歌ってくれている。