海と火と、それから

海と火と、それから

2023.12.23 – 2024.01.12 東京・宮城・埼玉・静岡・福島・京都

元日から言葉が出ない。ほとんど言葉を書いていない。おととい織田作之助賞(その選考委員を私は務めている)の短い選評をしたためただけだ。たぶん「書いてしまう」ことが恐ろしいのだと思う。なにか言葉を書きつけてしまう、残してしまう、そして発信してしまう、そうしたことをしていいのか? と2024年の1月1日のその時刻以降、自分が自分に問うている。問われているあいだは書けないが、私は締め切りは破らない人間だから、こうして「現在地」の更新の日が来て、私はとうとう文字を書いている。そもそも私は、別に談笑はできたし、当たり前に仕事用の、また私用のメールも書けた、友人たちと LINE も送り合えた。だが「書いてしまう」ことはできずに今日のここまで来た。

年末から年始にかけて、このウェブサイトの「セルフ解説」用に、文庫化がついに完結した『平家物語』の解題めいたテキストのシリーズを準備して、アップしようと考えていた。それはやめることにする。代わりにここに書いてみる。このウェブログ「現在地」に埋め込むように書いてみる。もう10年と半年前になる、2013年の7月11日のことになる、これは私の誕生日だ。私は河出書房新社のサさんからハッピーバースデーの言葉とともに長文のメールをもらって、それは依頼の文面で、何の依頼だったか? それこそ『平家物語』の現代語訳というのに挑んでもらえないか、という内容だった。その日、40代の後半の私がどこにいたのかと説けば、葛西臨海水族園にいた。ひととおり園内を見てまわって、そして、外に出たところだった。海を眺めていたところだった。そしてスマートフォンを出してメールを受信して、その長文のメールを読んだのだった。その時、目の前には海があった。東京湾だ。それから私は知る。(いや、もちろん以前から知ってはいたのだけれども)『平家物語』の内側には海があり、海があり、いっぱいの海があるのだと。それは瀬戸内海のことだったし、関門海峡のことだったし、そう、壇の浦だ。もしかしたら海こそは『平家物語』だった。

私は目の前の、東京の(いずれ太平洋に出る)海に臨みながら、「もしかしたら俺は、この依頼を引き受けてしまうのかもしれないな」と感じていたのだった。たぶん予感していたのだった。その現代語訳という仕事はけっこう壮絶なものになるだろう、と。もちろん予想していない事柄はあふれていた。たとえば壇の浦の合戦のシーンを訳している最中に、どれほどの〈災難〉が自分の肉体を襲うか、等。ある勢力とある勢力が海にいて、互いに殲滅し合わんとしている。いっぽうの勢力(それが平家だ)は天皇を抱えていて、3種の神器も抱えていて、それらをまるまる海の底に沈めようとする一門の〈太母〉もまた、いる。つまりその瞬間に日本国というのはどうにかなろうとしていた。そして海況はその時、ふたつの勢力の張り合うさまをシンボリックに反映したし、いいや、もしかしたら反映などしなかったのかもしれないけれども「したのだ」と伝説化した。つまり神話に変えていた。潮流こそが勝敗を左右したのだ、とか。

海だ。海の状況だ。

波だ。波と死だ。あるいは生。〈太母〉は孫の安徳天皇を抱擁して死へ向かい、しかし〈太母〉の娘の建礼門院は生へ向かった、結果的に。

そして火のことにも触れたい。どうして平家一門は壇の浦の決戦にまで追いつめられたのか? それ以前に、政治的・軍事的に支配していた京都(とは日本国の中枢である)を追われてしまっていたからだ。これは「京都からは(ひとまず)退いて、自分たちのありようを立て直す」と自ら決めたためだが、それゆえ〈都落ち〉をした。具体的には何をしたか?

まず自分の家を焼いた。

従者たちの家も焼いた。

それから40000軒だの50000軒だのの民家を焼いた、と『平家物語』は語っている。こうした原文に触れて、また、こうした原文を訳しながら、私は何を感じていたか? 私はもちろん「理解不可能だ」と感じていた。ほとんど歯噛みしていた。何をしているのだ、この連中は?

私は、こういう『平家物語』内にある火の非情を、誰かが「それはこういう理由だよ」と説いてくれないかぎり、人間という存在は最終的に理解できないと感じている。そういう軍事的な判断は、そういう政治的な判断は、なんだ? 私は能登半島地震で発生した輪島市の大規模火災に言葉をうしないながら、840年前の〈火〉の責任を、問いたかった。大自然の無惨さをとがめる、そのためにも、私たち(とは日本人だ、そして人類全般だ)自身の無情さ、筋金入りの愚かさを追及し切りたかった。……私は何を書いているのだろう? 私がいま言わんとしていること、それが誰に伝わるのだろう? 誰に……。

だから何事かを探らなければならない。時間はかかる。昨年のクリスマス直前に、私は宮城県の太平洋岸にいて、津波のあの当日の情景をリアルに自分自身の内側に「ふたたび見る」ということをしていた。そして今月、この文章をしたためる前に、福島県の太平洋岸にいて、やはり同じようなことをしていて、これらの行動、これらの活動は元日以降の能登半島での〈悲しさ〉や〈苦しさ〉とは別のところで、すでに駆動していた。以前から計画されていた。

つまり、私は、また書き出す。今年の2月の後半、そして3月と、私は少しずつ言葉を出してゆくだろう。