言葉よ、言葉が

言葉よ、言葉が

2024.01.13 – 2024.01.26 京都・東京・福島・埼玉

言葉がスムーズに出ることを念じつつ前回の「現在地」を閉じた。この2週間で、数日間の取材を行ない、文芸時評のために相当数の本を読み、再読もし、演劇のコンクールの審査のために時間をかけ、そして新しいプロジェクトの第1篇の起筆のために数日間準備に没頭した。が、この2週間で、ちょっと信じられない数の人と(仕事上で)会っているので、何かが消化しきれない。前述した「新しいプロジェクトの第1篇」は、今日起筆した。5行しか書けなかった。いまから4行削る予定だ。

だが、これは不幸自慢でもなんでもない。「俺は、それでも格闘しているよ」と伝えているだけだ。1行になってしまうであろう原稿を、明日、何十行……何百行まで育てられるのか。それを自分で(自分でも)見据えるだけだ。

真面目に憂えているのは昨年から続いている睡眠不足で、これが睡眠障害の様相を呈しつつある。が、そうした「睡眠時間の不足」は世界的な現象であって、かつ、わけても日本がその最先端を行っている。睡眠不足先進国。要するにこれは〈現代日本〉の社会現象であり、自分も立派な〈現代日本〉の一員であるのだと証されているわけで、考えさせられる。

考えさせられるので考察してみた。眠るためにはどうしたらいいのか? その時間をしっかり睡眠に充てられればよい。その時間とは、ベッドに入っている時間であって、本来ならば眠っているはずの「現在」だ。その現在をきちんと過ごせないことが「眠られない」という様態である。たとえば明日の予定が気になる時、それゆえに眠られない。それは「明日(=未来)が現在を食い潰している」と言える。あるいは昨日(やそれ以前)の出来事の空虚さのせいで、感情が動いてしまって、どうにも眠られない時。これは「昨日(=過去)が現在を食い潰している」とやはり換言できる。

なるほど、と思う。かつて、これは20年ほど前まではそうであった気がするのだけれども、社会はここまで「先が見えない」ものではなかった。昨日と同じように今日があって、今日と同じように明日があって、同じように去年と今年、来年が、また10年前と今年、10年後が、私たちの視野に入れられていた……ように思う。こうした〈社会的な精神状態〉があれば、私たちは安心して「今日を、今日として生きる」ことができ、つまり現在をきちんと過ごせたから、眠られた。

〈眠れない社会〉とは未来が、この現在を、あるいは過去(の蓄積、あらゆる歴史)までをも食い潰さんとしている社会である。だとしたら、こうした事態にどう抗えるか? 答えはたぶんひとつだけで、「現在を生きている、と自分に実感させてくれる人間たちと、可能なかぎり積極的に関わるように努める」しかない。しかしその基準に適合するのは誰か。個々人のバックグラウンドで〈基準〉が異なるのは論をまたないから、ここでは小説家の私のことだけを思考の処理対象として、解を探ってみる。

私が小説家であって、よい、と思っている人。思わせてくれる人。私の言葉はこの〈日常〉に適した言葉ではないかもしれないけれど、しかし〈非日常〉には必要だと感じてくれている人びと。その〈非日常〉を、虚構(フィクション)と言い換えてもよいし、あるいは非常時(エマージェンシー)と換言することも可能かもしれない。

そのうえで考える。自分の肩書きはなんなのだろうか、と。だんだんと私は「小説家」とは名乗らないようになってきている。単に「作家」と言い出している。というのも、小説以外にいろいろと発表している。詩も、戯曲も。評論も。そして思うのだが、どうしても「小説家」には小説を通してサービスする人、のニュアンスを(私は、この私は、時折だけれども)感じてしまう。私は小説、詩、戯曲、評論を通して文学をやりたい。たぶん、それを昔は〈純文学〉と言った……のかもしれない。だが、主張したいのはそういうことではない。

そこに受け手がいる、とイメージしてほしい。そして、その受け手に〈表現〉を届ける、ということをイメージしてほしい。この時ふたつのケースが考えられる。1。創り手が、届けたいというものを創って、届ける。その2。「受け手は、きっとこういうのを欲しがっている(はずだ)」と想定して、それに合わせて創り、届ける。

このふたつの差異は、普段はそれほど可視化されない。だが、私は2を棄てたい。そこには忖度があるから。そこにはマーケティングがあって、受け手を「下に見る」まなざしが存在するから。私は、私に触れる誰もが「現在を生きている」と感じられるような状態に、少しでも……ほんの少しでも至れるための言葉を出したい。

今日は出せなかった。明日、また執筆に挑む。