結ばれるもの

結ばれるもの

2024.01.27 – 2024.02.09 東京・埼玉・福島

もう4年と少し前になる。母親の葬儀があって、私はネクタイを結ぼうとしていた。多数の動画を観たし、どの動画がいちばん「わかりやすい」のか確認ずみだった。また、どうやったらネクタイは結べるのか、の図解の入った文章をプリントアウトして、かたわらに置いてもいた。というのも、私はネクタイが結べないのだ。それ以前に「結んでいた」シーンでは、つねに誰かに「結んでもらっていた」わけだ。しかし、母の葬儀に際しては、自分で結ばなければと思った。

結べなかった。数十分格闘したのだけれども。そういう自分にひどくショックを受けた。

なぜ私はネクタイを結べなかったのか、の問いは、なぜ私はネクタイを結ばなかったのか、それまで、との問いに重なる。ネクタイが必要な局面は、この日本社会に生きていると、訪れる。しかし、「どうしてネクタイは必要なのか?」だの「どうして男性の公式的な装いにはネクタイが必要なのか? たとえば、この日本社会では、ある時代まではネクタイ(という洋装)はなかったはずだ。なのに、どうしてそれが『伝統的』であって当然の葬儀の類いでも、装着が必須とされるのか?」といった疑念に、結局、誰も答えてくれなかった。私にとって、ネクタイは〈制度〉そのものであって、理解不可能なそれを身に着ける気はさらさらなかった。

そういう意識があったから、憶えようにも憶えられなかったわけだ。ネクタイの結び方が。また、いっぽうで、たとえばイスラエルのラビン(二度、首相になった)は、パレスチナ問題の解決に尽力した尊敬すべき人間だが、この政治家が、じつはネクタイを結べなかった。軍人出身で、たぶん「意味のあること」を最優先したタイプだったのではないかと想像する。ラビンの存在は、私をこの数十年鼓舞していた。

しかし、昨年末に、ネクタイを「締めるシチュエーションでは、締める」ことを私は決意した。

というのも、私は郷里の郡山市のフロンティア大使(ふるさと大使)になって、その会合が先日あったのだけれども、みなネクタイを締めている。ここで「俺の考え方は、こうだからさあ……」と言っていても始まらない、と直覚した。それよりも会合で、何を語り、何を聞くか、その内容に集中したかった。そして私は、母の葬儀に際してよりも高頻度でネット上の動画を確認して、ネクタイを「結べる」域に自分を持っていった。まあ、それでも、ディンプルというものの作り方がまだ不得手で、というか、あのディンプル(凹み)はやはり論理的なものではないなと感じていて、しかしそれは別の話だ。

私はずっと意味不明の〈制度〉には抗おうとしていたわけだが、そこには労力が要る。それよりも、受容する場では〈制度〉を受容してしまって、エネルギーは真の〈変容〉に向けようとしたのだ、と説明することもできる。いずれにしても、もはや〈制度〉にしがみついている層も、先の見えない現在を生きている。ならば、そこを問わないことにしたのだ、そんなことよりも「先を、自分に見せる」のだ、と私は考えているのだった。あるいは、私は考えているのかもしれないのだった、無意識に。

こういう「生きる態度」の激変が、郷里と接することで起きた……という事実も相当な要点だと感ずる。18歳まで郡山市が自分の拠点だった。そこと触れ直すことで、自分を劇的に修正する。あるいは、修正するための鍵と変える。それは「表装だけが変わる」ことの対極にあるとも直感している。

今月はそのフロンティア大使の仕事を2日続けて、この2日めというのは中学1年生、2年生に向かっての講演会だった。この時はネクタイを締めず、しかし全身で対峙した。というのも、中学生たちがこちらに真摯に、全身で向き合っているのがわかったから。そして、講演後の質疑応答の時間、式のお終いに「まとめ」の言葉を口にしてくれた二人の生徒のおかげで、真剣な語りはきちんと昇華されたこともわかった(郡山ザベリオ学園中学校のこの生徒たちの理解力、受容力の高さには、いまも感動させられている)。

たぶん私は、真に新しい〈制度〉が芽生えるための地平に、こうして立ちはじめたのだと想像する。

そうやって中学1、2年生の前に立った翌日には、高校1年生から3年生までの間の十代後半の自分がしてきた活動を、高校1年生になると同時に受けとめた幾つも年少の、しかし現在は50歳となる人間に会って、たとえ幼かろうが自分が「生きてきた」ことには、消滅をまぬかれて他者に手渡された要素(もの)もあった、と実感できた。言葉を換えるならば、自分の人生はぐるりと結ばれはじめている。