疎外と孤立は違う

疎外と孤立は違う

2024.02.10 – 2024.02.23 東京・埼玉

明日で私の作家デビュー25周年の「1年間」が終わる。だいぶ作品を出したことは事実だ。文庫化に関しても、たとえば『平家物語』の全4巻は、これでやっと「古川訳平家(または日出男訳平家)としての完全版」になったのだと感じている。しかしお祭りの感覚はない25周年でもあった。というのも、あまりにも「自分の内側から生まれているのではない作業」に翻弄されすぎた。そのひとつの証しが、ここにも幾度か書いたが、睡眠時間がまともに確保できなかった事実である。これほど睡眠欠如と言える状況が続いて、さらには不眠の状態にまで自分を追いやってしまった「1年間」はない。今後の目標は、「やりたいことをやる」に尽きる。かつ、これも前に書いたが、その「やりたいことをやる」ために「やりたいとは思えないことをやる」状況からソフトに離脱することである。

結局のところ、時代が(私自身をも含めた)人びとを追いつめているのは、マーケットシェアの問題でしかない。自分にとって文化とは、文学とはなんだったか? この世界に自分が生きているのに「どうも他の人のようには容易には生きられない」と感じた疎外の感覚、そこに響いてくるもの(それが本や音楽や映画や舞台やその他のアートピースだった)との接触だったり、融合だったりした。つまり、疎外の感受性こそが基盤にある。ということは、それはポピュラリティというかマジョリティ(「世間の多数派」と訳そう)の対極に位置する。シェアを占めるものはマジョリティ、ポピュラリティに沿う作品あるいは商品なのであって、それはつまり、疎外の感覚からはかけ離れる。なぜならば「どうも他の人と同じように、『みんなが好きなものが好きだ』とわかった。容易に生きられる」となるからだ。

もちろん、世界ぜんたいが生きづらい時代には「『容易には生きられない』を売りにすれば、マジョリティを得られる」のだとも説ける。しかし、そこには反映される疎外の感受性はじつは不在だ。そこには「どうも他の人も容易に生きられない、のだから、この自分は他の人と同じだ。容易に生きている人こそが真の『疎外』者なのだし、むしろ(私たちがある種、束になって)疎外すべきだ」との安堵、および穏やかならざる〈攻撃性〉が基盤として存在する。そして攻撃しない側は、この時代には、攻撃される側に回るという〈危険性〉をつねに抱えている。そのように感じられてしまうから、私たちは疎外を感じながらもマジョリティになる道を選んでいるのだ、と想像する。

そこから抜け出したい、と強い意志とともに思っている。しかし、それは言い換えれば「売れない本を、意志的に書いて発表しようとする」行為に似る。この〈似る〉は表面的に似るだけであって、むろん私はそんなことは考えていない(し、ぜんぜん求めていない)。だがマーケットシェアの問題だけが時代を駆動させている現況では、私が真に求めていることはどうも容易には可視化されない。どうして、あるひとつの作品が「深く刺さる」読者と、あるひとつの作品を「読んで楽しみはするが、たちまち忘れる」読者とを、同じ1という数字でカウントするのか? 念のために言うと、これは読者への糾弾ではまったくない。私は〈読書行為〉のその重さのことを言っている。10グラムと1000グラム(=1キロ)は違うということは誰だって理解している。しかし、10グラムを1回計測する行為と1キロを1回計測した行為は(測った回数的には)同じだから、これらのふたつの重さは同じだ、と判定させる類いの装置が、この現代にはまかり通りすぎている。

もしかしたら「10グラムと1キロは違うよ」と言ってしまうことが、もっとも罪になる時代がいまなのかもしれない。しかし、その程度のことは、言ってしまおうよと私は思っている。ねえ、みんな、言ってしまおうよ?

25周年の最後のメッセージがこれでは、やや暗いかもな、と自分で感じたので少々続ける。目下の私は4作品に取り組んでいる。1作めはもう書き終えて、最終回が発表されている『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』である。そのうちに単行本のゲラの作業に入ると思う。ふたつめ、これは来月発売の文芸誌に、その最初のパートが載る。そこから(おそらく)2年間ほど、不定期に発表しつづけるシリーズになるのではないかと見越している。第3の作品は、来月末から没入し、短期決戦に臨む。この夏、そして秋以降に、2段階で形にしたい。それから第4の、これこそは「自分の内側から生まれてくる」作品になるはずで、なぜならば誰か・どこかの注文で書き出そうとしている小説ではない。まったく先は読めない。そして楽しい。だからこそ、それを書くために、どんな苦しい思いをしても「生きていける糧」だけは得なければならない。はいはい、そういうわけでお金も稼ぎますよ、と宣言しながら、私は「数字数字ばっかり言ってると、あなた窒息するよ?」と助言するのだった。