道具を変える・肉体を変える・環境を変える

道具を変える・肉体を変える・環境を変える

2024.03.09 – 2024.03.21 京都・東京・埼玉

関西での取材はひさびさの充実だった。ちょっと処理が追いつかないほど大切な事物にガツンとぶつかった。というか、ガツン・ガツンとぶつかり続けた。あとはそうした〈衝撃〉のきちんとした消化である。すなわち文学的な処理である。まあ下ごしらえが肝要なので、膨大にとったメモをきちんと確認しやすいように整理している。ここからは本ごしらえもどんどん進行するだろう。ところで、そうした作業の合間に、というかもしかしたら順序は逆なのかもしれないが、文芸時評用の読書はがりがり進めていて、つまり「本を読んでいる間(合間)に、そういう作業をしている」様相でも私はあるのであって、なにしろ朝日新聞のその文芸時評も、今月でついに12回めを数える。ちゃんと書ければ、これで「1年間を走り抜けた」となるのである。やるしかないだろ。

という日々に、ちゃんとジムのトレッドミルで走るのも続けていて、そういう走り抜きもしっかり目途としている。こちらは3カ月単位で物事を考えていて、いまはひたすら「食って、食って、食う」というのもやっている。だから体重はぜんぜん減らない。しかし太股からは脂肪がごっそり落ちて、筋肉がミシミシし出した体感はある。これは〈体感〉なのであって、誤解である可能性も大だ。でも、やっぱり、ここは「そういう気分になっている」ことこそが肝要なのであって、たとえば日本社会とか日本経済の低迷というのは「そういう気分になれていない」から起きているのは厳然たる事実であり、ここは率先して、私は〈そんな気がする〉を実践するのである。みんなも真似するといいよ。これからは〈本はいっぱい読まれるような気がする〉とかね。いよいよ〈新世紀の文芸復興というのがバズる気がする〉とかね。ここはちゃっかりポジティブになろうよ。

そして『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』絡みの報告だが、単行本のゲラはついに担当のイさんに渡した。戻した。いやイさんの目から見ればゲラはついに戻ってきた、であろうか。同時に書き下ろしの序文というのも入稿して、こちらはホントに最新形の文章である。いい感じに書けた。自分が「京都帰りである」という熱は、作品……パンオペという本、この〈物語の卵〉を孵すための熱にも変じたはずだ。なにか自分は正しい意味で〈文学的な鶏〉になれたとも感ぜられる。この鶏がキメラ化した地平には〈文学的な鳳凰〉がいる。その鳳凰の眼差しが射貫いているのは、京都市北区にあるあの寺院の舎利殿、金閣である。

私が関西から持ち帰ったものには、体験や情報いがいに〈筆記具〉というのもあって、じつは4月から着手される新作(中篇である)は手書きで執筆される。その手書きの体制を支える〈筆記具〉が西より来た。そして作品用の原稿用紙の発注も終わった。つまり次作では、ほぼ劇的に執筆環境を変える。そういうことは、やはり、折おり意識的に試みなければならない。あのね、待っていても世界はきみや僕を救わんよ。だとしたら、こっちが先んじて変わってしまうしかないんだよ。自分自身のことだったら、ある程度の範囲内のものであれば変えられるからね。などと真剣に提言する。

それと現在、アニメーション作家の山村浩二さんが、私の自選集『とても短い長い歳月』の巻頭にも収められている掌篇「とても短い」を作品化してくれている。というか、作品そのものが完成した(!!!)。私はスタジオでの音入れの作業に立ち会わせてもらえたのだけれども、いやあ……すっげぇ。と洩らすしかない感じだった。伊左治直さんの音楽が、どの要素をとっても、ガッと来る。しかも、山村さんの手の線(とは画面だ)と伊左治さんの音の線(とは見えない画面だ)が、あきらかに深度の部分においても時空の両面のエクスパンションの点でも共振していて、そこに私の朗読する声が(幸いなことに)正しい〈共鳴〉を示している。このアニメは少しずつ少しずつ、この現実世界に姿を見せる、はずだ。

とうとう昨日(2024/03/21)は2年間続けてきたNHKラジオ深夜便「雉鳩ノート」の、その最終回に出演した。この期間、だいたいはアンカーの渡邊あゆみさんとお話をさせてもらい、またその記録的/データ的な一部分は『京都という劇場で、パンデミックというオペラを観る』にも嵌め込まれていったのだけれども、その意味ではこの「声の番組」はフィクションと現実の境界線上を往き来もした。つなぎもした。そこから私はとうとう卒業した。渡邊あゆみさんといえばじつは『人形歴史スペクタクル「平家物語」』のナレーターなのであって、ここには(人知れぬ)時空の螺旋が嵌め込まれていた、といま語る。さて深夜便を卒業したのだから、あとは公然と『古川日出男新世界「早寝早起き」』だな。春分も越えたし。